アイビーの俳句鑑賞 その2
アイビーの俳句鑑賞 その2
秋彼岸木魚の漏るる森の寺 (和談)
お彼岸は春と秋、年二回あるが、ただ「彼岸」と言った場合は春の彼岸をさす。秋は「秋彼岸」というのが俳句のルールだ。秋彼岸を題材にして手堅く纏めた。ただ、全体的に句が大人しすぎる印象だ。説法を聞きに来る老人とか、寺の僧侶の仕草とかにスポットを当てるのも面白い。
あせぬまにゴンドラの唄秋夕焼 (えっちゃんあら)
「ゴンドラの唄」は戦前の流行歌だが、黒澤明の名作・「生きる」のラストシーンで志村喬が口ずさむ歌という方が分かりやすい。秋の夕焼けは、夏の夕焼けとは趣きが違い、色も淡く、すぐに消えてしまう。そんな儚い夕焼けのイメージに「ゴンドラの唄」の歌詞を重ねてみると、この句の味わいも増すのではないか。
身にしむや戦力外と言ふ非情 (てつを)
プロ野球も大谷選手らの華々しい活躍の蔭に、球団から戦力外を通告される選手が少なからずいる。勝負の世界とはいえ、非情の感ひとしおだ。考えてみれば、なにもプロ野球の世界だけでなく、一般の社会でも同じことが言える。しみじみと人生の悲哀を感じる今日この頃だ。季語の「身にしむ」が効果的。
人生を語る皺の手温め酒 (あんのん)
職業によっては手の形状も千差万別だ。節くれだった手、華奢な手とあり、人生そのものを雄弁に語る。老人の手であろうか、皺だらけの手もある。皺の一本一本に人生が刻まれているようだ。配するに「温め酒」を持ってきたのがお手柄だ。これしかないという季語だ。
ズック足袋ビリの思ひ出青蜜柑 (ちとせ)
平凡に「運動会」とせずに、季語を「青蜜柑」としたところに作者のセンスが窺える。ちょっと酸っぱい青蜜柑と、懐かしくもほろ苦い少女時代の思い出と取り合わせた。ただ、斜線を引いたところで三段切れになってしまった。「ズック足袋/ビリの思ひ出/青蜜柑」勿論、意味上は上五と中七は繋がっているから、三段切れではないという見方もできるが。やはり字余りになっても適当な助詞を入れたいように思う。
新米の袋を撫でて古米買ふ (ダイアナ)
待望の新米の出回る時期になった。新米だからと言って、袋そのものは古米と同じだ。ただ「新米」と印刷したワッペンが貼られているに過ぎない。お、新米が出たかと、一旦は買う気になって、すぐ考え直す。どうせ新米、新米と騒ぐのは今だけで、そのうち全部新米になる筈と、冷静に判断する。主婦感覚のにじみ出たユーモラスな一句。
モノクロの雨降り止まず破蓮 (ヨシ)
上五の「モノクロ」が良い。モノクロということは無色ということで、陰鬱な雨を思い浮かべる。破蓮のうち枯れた、見るも無残な様子と陰鬱な雨との取り合わせたところが上手いと思った。雰囲気のある一句。
黄落や自閉児の持つ竹箒 (ナチーサン)
特異な題材を俳句にされた勇気に敬意を表したい。俳句をつくってやるという強い気迫を感じた。黄落と自閉児、結びけそうにないものを結びつけ、しかも不自然さが全く見られない。私もあやかりたいと思う。
以下次号、不定期掲載。
玉虫さんへ
やっぱりそういう時代あったんですよね。共感出来て嬉しいです。お昼にジンギスカンとはさすが北海道ですね👍
おお!
同志よ!って思いました。
知ってますとも!何しろ其れを履いて運動会に出たのですから。
でも安いモノは直ぐに破れましたよね?其れで世の中の貧富を学んだのですから。
安いモノは底が破れる。一日だけの運動足袋でした。
当日一日だけの。やあ~ホントに懐かしいです。
私は北海道の空知地方の学校でした。運動会は応援の父兄の昼にジンギスカンを焼く匂いとか。
食いしん坊ですからその記憶が強烈。足の裏の石炭殻を踏んだときの痛さ。
グランドが整備されてなかったんですね。
因みに徒競走で賞を取ったのは、中三の一回きりでした。
運動も苦手。ちとせさん、懐かしかったです!
ちとせです
ズック足袋ビリの思ひ出青蜜柑
先月の自作の青蜜柑、郷愁の内容をとアイビーさんのコメントで再考の句です。皆さんズック足袋ご存知ですか、転校した小3〜6年運動会にズック足袋を履く、馴染みが無く、その後見かけた事が無く、今でも何だったのかと。
ズック足袋にビリの思ひ出青蜜柑
に直しました。アイビーさん有り難う御座います。選句して下さった玉虫さんズック足袋ご存知だったら嬉しいです🙇