アイビーの俳句鑑賞 その4
アイビーの俳句鑑賞 その4
今月も無点句が少なからず出てしまった。中には「この句がどうして無点だったんだろう」と首を傾げるような句もあった。不遇な句としか言いようがない。こうした句も含めて、どこをどう直したらよかったのか考えてみたい。ただし、これはアイビーの独断に基づくものであり、違う意見や見方も当然あるべきだ。「何を見当はずれなことばかり書いているんだ」とのお叱りは覚悟の上である。活発な書き込みを期待してやまない。
秋の朝しゃれたお店のラテアート
ラテアートに馴染みが無いことが無点の最大の理由。では、どうすれば良かったのかと聞かれても、返答に窮すが。自分の知らないことは、スルーしがちなのは止むを得ない。「爽やかな目覚めのコーヒーラテアート」ぐらいか。
デパートや鮭弁当にまつしぐら
デパートの北海道フェアの様子を詠んだものか。若干、状況が分かりにくかったかも知れない。しかし、そのことが決定的な瑕疵とも思えないのだが…。
闇の道とぎれとぎれの虫時雨
「闇の道」が具体的にどの時間帯なのかをはっきりさせたい。「とぎれとぎれの虫時雨」というのが形容矛盾で、ひっきりなしに虫が鳴くのを虫時雨と言う。それと虫の種類を出す方が良いように思う。「早暁の間遠にたたく鉦叩」
走り過ぐ始発列車や露時雨
「露時雨」は露が一面、おりている状態で、雨が降ったわけではない。作者の建ち位置が分からない。いっそ、作者自身を始発列車の乗客にしたら面白い。『露時雨始発電車のいま発車』
純真な作風好み水澄めり
季語「水澄む」は、必ずしも川や池と言った水に関係のあるものに使われるとは限らない。むしろ水に関係ない事象に使った方が、俳句に深みが出る。この句のように幅広く使える利点がある。ただ、絵画なのか陶芸なのか、はたまた俳句なのか、ジャンルが不分明なのが難点。「純真な児童の絵画水澄めり」
新米や卵かけにて二膳なり
上五で切れ字「や」を使い、座五を「なり」と強く切るのはいかがなものか。上五は意味の上からも繋がっており、敢えて切る必要がない。「新米に卵をかけてお替りす」
総裁は突撃ラッパで秋もなし
初めての女性宰相・高市早苗新首相の誕生で、なにかと話題の多い最近の政界。その政治の世界を早速に詠んだ。座五の「秋もなし」というのは如何なものか。「総裁の突撃ラッパ天高し」
学びとは省みること道をしへ
「道をしへ」は斑猫の異名で、人が近づくと先に飛び、まるで道案内をするようだということからついた名。
上五と中七で人生の教訓を言っており、座五の「道をしへ」では即きすぎと感じた。ここは思いっきり離して「学びとは省みること小鳥来る」あたりでどうか。
雷鳥や俺を見つめて秋惜しむ
雷鳥と目と目が合った、こういうことはよくあることだ。上五の切れ字「や」は不要ではないか。「雷鳥と顔見合わせて秋惜しむ」
バス停の友見送るや萩ゆるる
助詞の使い方に一考を要する。それと「萩ゆるる」も良いが、友との別れる場面を詠んだのだから「零れ萩」はどうであろうか。「バス停に友見送るや零れ萩」
栗剥くや黒きかたまり虫いたり
表現をできるだけ簡素化し「虫食ひも構はず栗を剥きにけり」
ねこじゃらし空き地でじゃれし夕まぐれ
「じゃらし」が一句の中に2回出てきて煩わしく感じた。「猫じゃらし」は「えのころ」とも言うから、「ゑのころの戯れをりし夕間暮」
野路菊や誰からとなく始む歌
野路菊は菊の一種。座五の「始む歌」が窮屈で、字数の関係から止むを得なかったが文法的にも間違っている。語彙を少し工夫してみたい。語順を「野路菊や誰か歌へばみな歌ふ」
露草の挙る瞳に鳥翔てり
上五で切って二句一章のスタイルにしたい。「露草や眼上げれば鳥翔つて」
アイビーの俳句鑑賞:完
アイビーさんありがとうございます!
我が無点句鑑賞添削ありがとうございます。
やはりご意見いただくとあーそうだなーと
感心しています勉強足りないですね!