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スレッドNo.105

論語でジャーナル

10,子、伯魚(はくぎょ)に謂いて曰く、女(なんじ)周南(しゅうなん)、召南(しょうなん)を為(まな)びたるか。人にして周南、召南を為ばずんば、それ猶(なお)正しく牆(かき)に面して立てるがごときか。

 先生が息子の伯魚に言われた。「お前は「詩経」の周南・召南の部を学んだことがあるか?人間として周南・召南の部を学ばないと、まるで塀(垣)を目の前にして立っているようなものだ(目隠しされたようで何も周囲が見えず、身動きがとれないということになる)」

※浩→孔子が息子の伯魚(孔鯉)に詩の価値・効用について語っています。『詩経』の持つ重要性を教えるために、身近な例え話を用いて語りかけています。「周南」「召南」の巻は『詩経国風』十五巻の初めにある二巻で、最も純粋は愛情のうた、おおむね男女の愛情をうたった詩です。時あたかも伯魚は、結婚しようとしていたという説があります。
 ことに結婚しようとする人間として、この優れた愛情の文学を学ばないとすれば、ちょうど壁に向いて立っているようなもので、目隠しされたのと同じだと、孔子は言っています。「為」を「まなぶ」と読んでいます。ここで、その詩の一例をご紹介します。

 窈窕の章:淑女を歌う(詩経国風:周南)

關雎(壺齋散人注)
  關關雎鳩  關關(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は
  在河之洲  河の洲にあり
  窈窕淑女  窈窕(ようちょう)たる淑女は
  君子好逑  君子の好逑

  參差行菜  參差たる行菜は
  左右流之  左右に之を流(もと)む
  窈窕淑女  窈窕たる淑女は
  寤寐求之  寤めても寐ねても之を求む

  求之不得  之を求むれども得ざれば
  寤寐思服  寤めても寐ねても思服す
  悠哉悠哉  悠なる哉 悠なる哉
  輾轉反側  輾轉反側す

  參差行菜  參差たる行菜は
  左右采之  左右に之を采る
  窈窕淑女  窈窕たる淑女は
  琴瑟友之  琴瑟(きんしつ)もて之を友とせん

  參差行菜  參差たる行菜は
  左右撰之  左右に之を撰(えら)ぶ
  窈窕淑女  窈窕たる淑女は
  鍾鼓樂之  鍾鼓もて之を樂しましめん

 和やかに鳴きあうミサゴの夫婦が川の中州にいる、窈窕(ようちょう)たる淑女は、ミサゴの妻のように、君子の妻とするに相応しいものだ
 生い茂った水菜は左右に求めて食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、目覚めていても寝ていても、求めに求めて伴侶にすべきものだ
 窈窕たる淑女を求めて得ることができないならば、目覚めていても寝ていても残念に思うべきだ、ああ残念のあまり、身のもだえる思いがする
 生い茂った水菜は左右に摘んで食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、琴瑟(きんしつ)を以てもてなすべきものだ
 生い茂った水菜は左右に選び取って食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、鍾鼓を以て楽しんでもらうべきものだ

 この詩は、配偶者を求めて歌っていることから、中国人にとっては古来、婚礼の席で歌うべきめでたい歌だとされてきたそうです。
 「關關(かんかん)」とは毛伝に和声をさすとある、ミサゴの夫婦が互いに応じあって声を交わすさまを表しているのであろう、ミサゴに限らず鳥は夫婦仲が良いものであるから、人の婚礼のめでたさを飾るのに相応しい。また「窈窕」とは、つつしみ深い美しさをさす、中国人にとって、女性としてあるべき理想を表わした言葉であった、だから詩の中では、そのような婦人は寝ていても覚めていても求めるべきだと言っています。
 『詩経国風』に出てくる十五の国・地方のうち、最初に位置するのは周南である。周南は次に出てくる召南とともに、周の南の地域の歌謡を集めたものだとされます。周の始祖后稷(こうしょく)から数代を経たとき、周は故地を分かちて、周公と召公とにそれぞれ治めさせた。いずれも今の陝西省の地域です。周は後に華北全体を覆う大帝国となりますが、その中でも陝西省にあった周と召とは、国家の中核をなすところだったのです。
 この周南篇に収められた作品は、いづれをとってみても、高い格調を感じさせる。中でも冒頭を飾る「關雎(かんしょ)」は「窈窕の章」とも称され、古来漢詩の精髄とも見なされてきたもので、蘇軾(そしょく)もあの「赤壁の賦」を、この歌への言及を以て始めているとか。

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