論語でジャーナル
12,子曰く、色厲(はげ)しくして内荏(やわ)らかなるは、諸(これ)を小人に譬(たと)うれば、それ猶(なお)穿窬(せんゆ)の盗のごときか。
先生が言われた。「顔つきは厳めしいが、内面(心)はぐにゃぐにゃなのは、小人にたとえると、壁・塀に穴を開けるコソ泥のようなものだろうか」。
※浩→“巧言令色”を嫌った孔子が、ここでは表情だけ厳格で内面に信念がない人物を、小人の盗人になぞらえて厳しく非難しています。「穿」は壁に穴を掘ること、「窬」は蘠(かきね)に穴を掘ることです。
私も「顔つきが厳めしい」時代がありました。でも、「心はぐにゃぐにゃ」ではなかったかもしれません。アドラー心理学に出会う前は、授業でもいよいよ窮したら怒鳴っていました。いよいよ極限状態に達した時期には転職も考えましたが、その後、大学の恩師に相談して「カウンセリング」という世界があることを知り、以後は知恵を絞って、暴力的対応に変わる技術を工夫するようになりました。
それでも「見栄の大森」はずっと健在で、自分の外観はかなり気にし続けてきました。これも「中庸」が大切で、「華美になりすぎず」「不潔になりすぎず」を心がければいいのではないかと思っています。
野田先生は、子どもさんたちに、「うちのお父さんは怒らないけど怖い」と言われていたそうです。どうしてかというと、「言ったことは必ず実行し、実行しないことははじめから言わない」からだそうです。