論語でジャーナル
13,子曰く、郷原(きょうげん)は徳の賊なり。
先生が言われた。「えせ(偽者)君子は、道徳の盗人、あるいは冒涜である」。
※浩→徳の本質を重視する孔子は、外見や動作、服装だけを君子らしく見せかけて大衆を騙している人物を強く嫌悪しています。「郷原」の「原」を古注では「ゆるす」と読んで、誰にでも八方美人的な人間という意味です。新注では、俗にこびるにせ者の意味ですが、吉川先生は「えせ君子」と訳されていて、貝塚先生も絶賛されます。世の中には、芸術・学問・宗教・道徳の盗人がどれほど多いことかと言っているのですが、そう言われると私はドキッとします。日本では、「狂言師、見てきたような嘘を言い」と言われます。「見栄の大森」の私ですと、孔子先生にコテンパーにやられそうです。昔、備前高校でボート部の顧問をしていたころ、この部は大規模な部で、顧問が常に3人いました。その3人の顧問がよく、「誰が一番ええカッコ師か」、楽しい論争していました。この学校ではいろいろ事件もありましたが、職員どうしの結束が強くて、そのたびにワンームで乗り越えることができていました。自己弁護をしますと、その「見栄張り」も、世の中に役立つように活用することはできそうですし、実際はいくらかでもそうできている面もあります。全面否定する必要はないと思います。アドラー博士も「何を持っているかが重要ではなくて、持っているものをいかに使うかが重要だ」とおっしゃいます。