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スレッドNo.123

論語でジャーナル

19,子曰く、予(われ)言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時(しじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言わんや。

 先生が言われた。「私はもう何も語るまいと思う」。子貢が言った。「先生がもし何も語ってくださらないと、私たち弟子は何にもとづいて語りましょうか」。先生は言われた。「天は何か言うだろうか。天の運行によって四季は自然に運行し、四季の移り変わりによって万物も生育している。天は何を語るだろうか」。

※浩→魯に帰国した晩年の孔子が、ある日突然、「これから君たちに何も話をしてやらないことにした」と言い、弟子たちがびっくり仰天しています。秀才の子貢は慌てて、取り消してほしいと願いました。孔子が何も語らないという理由は、世界の根本原理は、孔子の言葉の中にではなく「天命の示す摂理」にあるからで、孔子はすべての疑問を孔子の言葉に頼って解決しようとする弟子たちの態度を戒めたのです。天は何も語ってはくれないが、規則正しい天候の周期と万物の生成の中には「事物の摂理・本質」が内在している、教育者としての孔子はそのことを弟子たちに伝えたかったのでしょうが、秀才の子貢でさえ、このことがよくわかっていなかったのでしょう。
 『易』に、「言は意を尽くさず」とあるように、言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する、そういうおそれが孔子にあったのでしょう。納得です。アドラー心理学の基本前提(理論)に「認知論(今は“仮想論”)」というのがあります。「認知論」という名称が「仮想論」になったのは、アドラーの原点に戻って表現を変えたのだそうですが、その違いは次のように説明されました。
 まず、「外界」があって、人がそれを「知覚」します。その「知覚像」に「言葉」がくっついて「意味づけ」することを「認知」と言いました。
「仮想」はどう考えるか?まず、漠然とした「外界」(カオスでしょうか)があって、人は「言語」でもって外界の部分部分を切り取って、自分の主観的世界を形成するのだそうです。その世界は「実物」の世界でなく、「仮想」の世界です。そして「言語」でできていますから、「言葉」を正確に使わないと世界が正しく見えないです。「言葉の限界が世界の限界だ」と言ったのは論理実証主義のウイットゲンシュタインでした。主観的世界よりも「外界」のほうが広いですから、当然、人知の及ばない未知の世界が存在するはずです。このことが孔子の言う、「言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する」ということなのでしょう。仮想論のおさらいになりました。感謝です!

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