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スレッドNo.125

論語でジャーナル

20,孺悲(じゅひ)、孔子に見(まみ)えんと欲す。孔子辞するに疾(やまい)を以てす。命を将(おこ)なう者、戸を出(い)ず。瑟(しつ)を取りて歌い、これをして聞かしむ。

 孺悲が孔子にお会いしたいと言って来た。しかし、孔子は病気を理由に面会を断られた。孔子の言葉の取り次ぎ役の人が戸口を出て行った。これを見すました孔子は瑟をとって歌って、孺悲に聞こえるようにされた(仮病だということを孺悲に知らせた)」。

※浩→「孺悲」は魯の哀公の命で、孔子について喪礼を学んだ臣です。詳しいことはわからないそうです。「命をおこなう者」は「返答を取り次ぐ者」。前の条と同じく、孔子は「言葉」を通じてではなくて、心と心とが通じることに重きを置いています。道の本質は言葉だけによらず、心と心の間で伝わるという考え方が、当時広く行われていました。またまた『老子』に通じそうです。『老子』の冒頭には次のようにあります。

 道の道とすべきは、常の道にあらず。
 名の名とすべきは、常の名にあらず。
 無名は天地の始めにして、有名は万物の母。
 故に、常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼〔きょう〕を観る。
 此の両者は同じく出でても名を異にし、同じく之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。

 これこそが理想の“道”です、と言っているような“道”(=世間一般に言っている道)は、恒久不変の本来の「道」ではありません。これこそが確かな“名”だと言い表わすことのできるような“名”(=世間一般に言っている名)は、普遍的な真実の「名」ではありません。天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉でな名づけ用のないエトヴァスであるが、万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。だから人は常に無欲であるとき、名を持たぬ道のかそけき実相を観るが、常に欲望を持ち続ける限り、あからさまな差別と対立の相を持つ名の世界を観る。この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、根源的には一つであるが、名の世界では二つに分かれ、いずれも不可思議なるものという意味で玄と呼ばれる。そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用になる一切万物はそこを門として出て来るのである。(←福永光司先生訳より)
 野田先生のおっしゃったように、「万物の根源」としての「道」を言っていますから「土着思想」ですか。『老子』は「道徳経」と呼ばれていて、前篇が「道」についての哲学で、後篇が「徳」の実践編になっています。まるで、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』のようです。さいわいアドラー心理学では、理論の折衷は認められませんが、技法の折衷というか借用はいっぱい行われています。後篇から「人生哲学実践」のアイディアを拝借するのは許されるのではなかろうかと、私は勝手に解釈することにします。『老子』の逆接的な道徳実践は、アドラー心理学が好む「パラドキシカル」な技法にも通じそうな気がします。「千里の道も一歩から」などはよく知られていますが、あの出所は『老子』で、「千里の道も足下に始まる」が原文です。「老子」全体のキーワードは、もちろん、“無為自然”です。

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