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スレッドNo.129

論語でジャーナル

22,子曰く、飽(あ)くまで食らいて日を終え、心を用うる所なきは、難(かた)いかな。博奕(はくえき)なる者あらずや。これを為すは猶(なお)已(や)むに賢(まさ)れり。

 先生が言われた。「腹いっぱいに食べて一日を終わり、何事にも頭を働かせない、そんなのは困ったことだね。双六(すごろく)や、囲碁というのがあるではないか。それでもやるほうが、何もしないよりはまだましではないか」。

※浩→儒家は“無為”を嫌う「有為(人為)の思想」で、道家は“有為(人為)”を嫌う「無為の思想」です。孔子は、一日中何も頭を使わずに飽食をしている人を批判していて、何もしない無為よりも、まだ囲碁や双六などの遊びをしているほうがましだと言っています。特に孔子は、体力にも優れた活動家で、いつも何か働いたり考えたりしていないとい気がすまないのでしょう。ごろごろしている弟子を叱ったときの言葉でしょう。
 アドラー心理学で昔、性格(ライフスタイル)を知る手がかりとしていくつかのタイプをも受けていたことがあります。その当時は結構流行りましたが、そもそも人はそれぞれ“違う”ので、タイプ分けはナンセンスだということで、その後は言われなくなりました。ただ、何も手がかりのない状態からその人のライフスタイルを知るのは至難の業だということで、“手がかり”だということを忘れないで、その分類を参照すると便利なことはあります。孔子が「体力にも優れた活動家で、いつも何か働いたり考えたりしていないとい気がすまないのでしょう」と書かれていることから、「ドライバー」というタイプを思い出しました。「何かを達成しているとき自分はOKだ」というようなライフスタイルです。こういう人は、「無意味な時間」を過ごすことは苦痛なのでしょう。いつも何かをしていないといけない。私にもかつてはそういう傾向があったかもしれません。その後、『荘子』などを読んで、「無用の用」ということを学びました。一見何の役に立っていないような存在が意外なところで役立っているということです。「余白」とか「行間」とかの意味に通じるところがあるようです。最近、テレビのCSでアニメの「おいしんぼ」の再放送があって、録画してはちびちび見直しています。新聞社につとめる主人公の「山岡さん」は日頃はぐーたらしていて、勤務時間中でもしょっちゅう居眠りをしています。それが料理や食物のことになると、まさに天才的な才能を発揮します。あのぐーたらの時間にしんかりと「脳」を休ませているのかもしれません。「無用の長物」などと批判しないで、「無用の有用性」を活用できると、生活にゆとりができそうです。今、学校の先生方にはそれが許されない厳しい現状があります。良い教育ができるわけがない!

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