論語でジャーナル
25,子曰く、唯(た)だ女子と小人とは養い難しと為すなり。これを近づくれば則ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨む。
先生が言われた。「女子と小人とだけは取り扱いにくいものである。親しみ近づけると無礼になり、疎遠にすると恨みをいだくから」。
※浩→現代の倫理観では、男尊女卑や差別になります。吉川先生は、『論語』の教えの全部が現代には通用しないと。今、こんなことを言うと、大問題です。そもそも孔子の時代は階級社会ですから、そこを勘案して、貝塚先生は、もう少し丁寧に、ここでの「女子と小人」は、家庭内で使役している女子と男子の使用人(大阪ふうに言えば、「おとこしゅ」と「おなごしゅ」でしょうか)を対象にしていると解説されます。孔子の時代の貴族は多妻制でしたから、家庭内では多数のお妾さんがその召使いとともに同居していて、そういう多数の女子と使用人の取り扱いが難しいと言っているので、この言葉から孔子が恐妻家であったとか女子を蔑視していたと主張するのはおかしいとも述べられています。
ただ、「女子と小人」にこだわらなくても、こういう人は存在しそうです。特に日本では、親しい人にはぞんざいになり、つきあいを切ると恨まれたりすることはあります。対人距離を考慮して、距離にふさわしいつきあいができれば、それにこしたことはないです。アドラー心理学では、対人距離の遠近で、「仕事のタスク」と「交友のタスク」と「愛(家族と性)タスク」に3分してつきあい方を考えます。距離が近づくほどに、“協力関係(共同体感覚)”の必要性が高まります。「愛のタスク」の距離になると、生理レベルでの嫌悪が生じるでしょうから、一層、相手への理解と配慮が必要になります。そのことを「永続し、運命をともにする関係」と表現します。「どのレベルのタスクか」を明らかにすることで、人間関係のこじれも少なくなりそうです。「仕事」なら「仕事」と割り切れます。「友だち関係」なら、かなりお互いが譲歩し合わないとうまくつきあえません。「愛のタスク」を、野田先生は“向こうがこけたらこっちもこける”関係、とか、“うちかてアホやけど、あんたかてアホや”という関係だと、面白い表現をされていました。