論語でジャーナル
8,逸民(いつみん)は、伯夷、叔斉、虞仲(ぐちゅう)、夷逸(いいつ)、朱張、柳下恵、少連。子曰く、その志を降(くだ)さず、その身を辱(はずかし)めざるは、伯夷・叔斉か。柳下恵、少連を謂わく。志を降(くだ)し身を辱めたるも、言は倫(みち)に中(あた)たり、行は慮(のり)に中たる、それ斯(こ)れのみ。虞仲、夷逸を謂わく。隠居して言を放(お)き、身は清に中たり、廃は権に中たる。我則ち是に異なり、可も無く不可もなし。
隠者は伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連。先生が言われた。「自分の志を高く保ち、一身の潔癖を守り続けたのは、伯夷・叔斉兄弟である。柳下恵・少連を評価すると、志は捨てられ、その身は汚された。しかし、その言葉は道理に的中し、行動は思慮に的中した。それだけだが、それは素晴らしい。虞仲・夷逸を評価して言うと、彼らは世の中から隠れて住み、言葉を放棄して沈黙を守った。隠棲のやり方も程よいものであった。しかし、私は彼らとは違う。(自由無碍の境地で状況を見極め)主君に仕えるべきときには仕えて、仕えるべきでないときには仕えない。一定のきまりに拘泥しない」。
※浩→孔子が、高邁な志と潔癖な倫理を持っていた隠者(隠棲の士)をそれぞれ評価しています。主君への忠義を貫いて餓死した伯夷・叔斉を讃え、それ以外の隠者についても評価しています。しかしながら、孔子はそれらの俗世を捨てた隠者とは異なって、状況や大義を見極めながら仕える主君を選んでいきたいと言っています。
「伯夷・叔斉」は殷末の賢者兄弟です。周の武王が殷を滅ぼしたとき、これをやめるように諫めて聞き入れてもらえないので、首陽山に逃れて、蕨を食べていましたが、ついに餓死しました。「虞仲」は呉の泰伯の弟。泰伯とともに位を末弟の周の季歴に譲って江南に逃れた仲雍(ちゅうよう)にあたると言われます。「夷逸・朱張・少連」は不明の人物。「柳下恵」は魯の大夫・展獲。自由に生きる隠者、後世にもある価値を持ち続けたのは、この条が重要な基礎になっていると吉川先生は述べられています。が、儒家がこんなふうに道家的な隠者を評価するのは、やはり珍しいです。相互に影響し合っている部分もあるのでしょうか。アドラーとフロイトだって、20世紀初頭には共同で活動した時期があったのですから、それなりに影響し合っていることは確かででょう。例えば、「無意識」という概念の元祖はフロイトです。アドラーは「無意識」という“もの”の存在は認めず、「無意識的」というふうに形容詞として使いました。フロイトの娘さん・アンナ・フロイトは「自我心理学」を確立しました。カレン・ホーナイの「所属本能」は「所属欲求」としてアドラー心理学に導入されました。サリヴァンやフロムといった新フロイト派の人たちはアドラー派と言ってもいいくらいアドラー心理学っぽいです。ただ、創設当時はクリエイティブだったものが、時代とともに土着化していく傾向があるようで、その点には要注意です。そういえば、MHKの紅白歌合戦を見なくなって久しいです。当初は、必ずしも“人気”のみにこだわらず、実力のある歌手が登場していて、ほんとに歌唱力で評価されていました。いつしか人気投票のような形になって、特にその年に華々しい活躍をした人を登場させるようになり、実力者が姿を消していきました。舞台も次第にレーザー光線などを多用して、ギンギラギンの宇宙ステーションのような感じになって、見るのが疲れるようになりました。歌手の名も国籍不明のようなカタカナ文字の人やグループばかりです。まあ、見ないのですから、批判もやめましょう(笑)。