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スレッドNo.15

論語でジャーナル

21,子曰く、子曰く、君子は諸(これ)を己(おのれ)に求め、小人は諸を人に求む。

 先生が言われた。「君子は(求めるものを)自己の中に求めるが、小人は他人に対して求める」。

※浩→求めるものが何か、いろいろあるでしょう。ともかく期待するものは自己の中にある。自己の力によって期待を実現する。他人から与えられることを期待してはいけない、ということでしょう。貝塚先生はこう解説されます。孔子は、他人に何かを要求するような心は卑しく、自分を練磨して自分の内面から期待するもの・価値あるものを生み出そうとする心を尊いとしたのでしょう。言葉の連鎖で、「期待するもの」「価値あるもの」とは「目標」のことです。アリストテレスは、「最高善(=目的)は幸福」と言っていました。人間は目標・目的を追求して生きるというとアドラー心理学のようです。それは「善を追求する」ことだとすると、ソクラテスの「善く美しく正しく生きる。善にして美なるものを知る者は、それを措いて他のものを選ぶことは決してしない」となり、さらにプラトンの「善のイデアを追求する」にたどり着きます。功利主義では、「自分の幸せを他人に求めてはいけない。自力で達成せよ」でしょうか。仏教には「他力本願」と「自力本願」という考えがあります。「自力本願」であれ、ということでしょうが、こういうことが堂々と言えるのは、肥沃な農業社会にあって、人力の有効性が確認できたからでしょう。ユダヤ教やイスラム教のような(不毛な)砂漠で、自然の脅威にさらされる生活を強いられるとなると、絶対的で万能の「神」に帰依することに自己の幸福実現を求めざるをえなくなるでしょう。「他力本願」について少し調べてみると、他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲の力(働き)、本願とは一切衆生(いっさいしゅじょう)の救済を約束する「仏の願い」を指します。この言葉は浄土真宗の教えを示す重要な基本用語ですが、正式には「本願他力」と言うのですか。親鸞上人によれば「他力とは本願力なり」ですから、一切衆生の救済はこれ(=他力)によって成立することを明らかにしました。世間では、何も努力しないで他人の力に頼ることを「他力本願」と言っていますが、これはまったく誤用です。仏教は、ユダヤ教のような砂漠ではなくて、ガンジス川流域の肥沃な土地で生まれましたから、唯一絶対万能の「神」に帰依するのではなく、悩める人自らの修行によって苦悩を解脱しようとしました。これは「自力本願」ですね。始祖のゴータマは自力本願で解脱したのに、その流れを継ぐ親鸞聖人は「他力本願」を説くというのは、凡人の私には理解が困難です。ただよほどの絶望状態からのお悟りではないかと推察するのみです。真宗の信徒さんから叱られそうです。ごめんなさい。
 野田先生は、「自立」というのは、人がすべてのことを自力で成し遂げることだとはおっしゃいませんでした。というのは、人はどこまでも「不完全な」生き物ですから、その能力には限界があります。どんな限界かは、哲学者がいろんなことを言っています。フランシス・ベーコンの「4つのイドラ」がわかりやすいです(これは今日はパス)。自力のみで達成困難なときは、人の協力を仰ぐことができること。それができてこそ「真の自立」だとおっしゃいました。そういえば、「人にものを頼むのは嫌いだ」と言う方がいます。そういう人は、ほんとの自立をしていないのかもしれません。

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