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スレッドNo.163

論語でジャーナル

2,子張曰く、徳を執(と)ること弘からず、道を信ずること篤(あつ)からずんば、焉(いずく)んぞ能(よ)く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん。

 子張が言った。「徳を守って固くなく、道を信じて誠実でなかったら、世に生きても何の影響なく、死んでも何の影響もないだろう」。

※浩→「弘」は「広」とか「大」とか訳されますが、貝塚先生は「強」と解釈されます。このほうが、「徳を執ること弘(かた)からず、道を信ずること篤(あつ)からずんば……」とバランスが良くなるそうです。子張の断定口調の道徳観を示しています。徳目を守ることの重要性、人道を誠実に踏み行うことの価値を主張していて、人としての仁徳や人道を軽視して生きるのであれば、生きていても死んでいても大差ないと、子張は孔子よりもやや中庸を欠いた激烈さ(気性の激しさ)を持っていたのです。弟子によって教義が次第に固定して教条主義の傾向が強くなっています。古今東西、新たに創造的思想が誕生したのち、創始者がいなくなって後継者に受け継がれていくにつれて教条化していきます。野田先生は「土着化」するとおっしゃっていました。1992年の横浜総会での基調講演は「心理学における土着思想と反土着(創造的)思想」というタイトルでした。この講演は終了後直ちにカセットテープが販売されました。もちろん購入して、その後何度も聞き直しました。東西の哲学思想を引用されていて、ある程度の素養がないと理解できない内容でしたが、岸見先生は哲学者ですからとても好印象を持たれたようでした。私は岸見先生の足下にも及びませんが、授業で少々哲学分野も扱っていたこともあり、すんなり受け入れられる部分がかなりありました。のちに機関誌『アドレリアン』に一部手直しされたものが掲載されました。これは文字で残っていますので、冒頭部を引用しておきます。↓
 1,創造的思想と土着思想
□文化への治療としての創造的思想
 エーリッヒ・フロムは、「創造的思想は常に批判的思想である」(『フロイトを超えて』)と書いています。何に対して批判的であるかというと、社会が共有している自明性に対してであると思います。「共有された自明性」は、通常「文化」と呼ばれています。それは、多くの場合無意識的であって、言語化されることがなく、したがって反省してみられることがありません。それを意識化し言語化して、理性にもとづいて批判を加えるのが、創造的思想の役割です。創造的思想とは文化批判なのです。
 文化は個人のライフスタイルに相当するものですから、そこには、良いものも含まれているでしょうが、問題のあるものも含まれているはずです。それを批判的に再検討して、問題点を明らかにし、代替案を用意することは、個人の心理療法に相当する作業です。創造的思想は、文化に対する治療的アプローチなのです。これがなければ、人類の精神的進歩はありません。
 創造的思想は、例えば地位や財産についての成功のような、世俗的に容認され、さらには偶像化されてきた価値を批判して、代わりに、より人間的な価値を発見しようとします。その結果、必然的にスピリチュアルなタスク、すなわち、「私は誰であるか」「生の意味は何であるか」にかかわることになり、真に人間的な生き方は何であるかを問題にする思想になります。アドラー心理学もまた、世俗的な偶像化された価値を批判しつつ「人生の意味」を問い続ける、批判的で創造的な、本質的にはスピリチュアルな思想であると思っています。
□文化批判への治療抵抗としての土着思想
 創造的思想が文化の価値観を批判する時、それへの反動として、文化が本来持っていた価値観を擁護するための思想が形成されてきます。これを土着思想と呼ぶことにします。土着思想は、批判の否定ですから、「考えることをやめて、現状をそのまま受容せよ」と主張します。これが土着思想の基本的メッセージです。
 土着思想の例として、例えば、神道の思想をあげることができるでしょう。古代日本の文化的自明性が言語化されたものが神道ですが、これは仏教という外来の思想に触れてはじめて思想化されました。仏教が批判的創造的な役割を果たした時代があったのです。神道は、日本古来の価値観を反映していると思われますが、歴史的に見れば、仏教への反動としてはじめて言語化されたものです。こうして言語された神道の思想は、おおむね次のようなものです。
 世の中に生きとし生ける物、鳥虫に至るまでも、おのが身のほどほどに、必ずあるべきかぎりのわざは、産巣日神(むすびのかみ)のみたまに頼りておのづからよく知りてなすものなる中にも、人は殊にすぐれたる物として生まれつれば、また、しか勝れたるほどにかなひて、知るべきかぎりは知り、すべきかぎりはする物なるに、いかでかその上をなほ強ひることのあらむ。教へによらずては、え知らずえせぬものといはば、人は鳥虫に劣れりとやせむ。いはゆる仁義礼譲孝悌忠信のたぐひ、皆人の必ずあるべきわざなれば、あるべきかぎりは、教へを借らざれども、おのづからによく知りてなすことになるに…。
 これは江戸時代の神道思想家・本居宣長の『直毘霊(なほびのたま)』の一節ですが、ここには、「考えることをやめて、現状をそのまま受容せよ」という土着思想の特徴が端的に言い表されています。
 しかし、ただそう言ったのではいかにも説得力に欠けるので、土着思想は、この主張の正当性の根拠として、根元的な秩序形成力(ここでは産巣日神)を持ち出します。そして、それと人間の意志的努力との葛藤という図式を描き、人間の不幸の原因をこの両者の対立に帰しておいてから、秩序形成力を十全に働かせるためには、人は意識的な努力を放棄しなければならないという結論を導き出すのです。すなわち、
1. 根本的な秩序形成力が存在する。
2. 意識的努力は秩序形成力と対立し、混乱を引き起こす。
3. したがって、意識的努力を放棄すれば、おのずと秩序が現れる。
 というように論理を構成します。
 このようにまとめると、これは日本独特の思想ではまったくなくて、世界中にある思想であることがわかります。例えば、中国にもこういう思想はありました。
 虚無の道を極めて静寂の境地に入ると、この世に起こるさまざまのことは、結局は窮極の実在である道(タオ)の現れであるとわかる。事物は変動するが、その元に根本がある。その根本に帰ることを静寂と言い、静に帰ることを天命に復帰すると言う。
 聖人の教えなど捨てれば、民の利益は百倍になる。道徳など捨てれば、民は親を敬い子を慈しむ。名誉欲や物欲を捨てれば、盗賊はいなくなるであろう。
 これは『老子』からの引用です。老子の思想は、当時の文化への批判であった孔子の思想への、文化の側からの反動であると考えることができます。ここでも批判的思想が先行し、それへの反動として文化的自明性が土着思想として言語化されているのです。また、ここでも、根元的秩序形成力(ここでは道)の存在と自己放棄の必要性を根拠にして、楽天的な現状肯定が主張されています。
 ここには、盲目的な現状肯定があるだけで、批判精神も創造的発想もありません。それはそうで、土着思想は、文化への治療である批判的思想に対する、文化の側からの治療抵抗であり、伝統的慣習の自己弁護、自己保存努力であるにすぎないからです。

□創造的思想の土着化
 批判的な創造的思想も、継承されるうちに批判性を欠くと、容易に土着思想に呑み込まれてしまいます。思想の歴史は、批判的創造的思想が現れては、やがて土着思想に呑み込まれ、それに対する批判としてまた新しい批判的思想が現れる、ということの繰り返しであったと言ってもよいでしょう。
 ある時代の日本と中国においては、仏教が批判的思想であり、神道や道教が土着思想でありましたが、仏教はやがて土着思想に呑み込まれてゆきました。例えば、日本中世天台宗の論書である、伝源信『真如観』は、
 今日より後は、わが心こそ真如なりと知り、悪業煩悩も障りならず、名聞利養かへりて仏果菩提の資粮(しろう)となりつれば、ただ破戒無慙(はかいむざん)なり懈怠嬾惰(けたいらんだ)なりとも、常に真如を観じて忘るることなくば、悪業煩悩、往生極楽の障りと思ふことなかれ。
 と述べていますが、これは仏教用語で書かれた土着思想です。ここでは、仏教は神道に呑み込まれているのです。
 中国では、例えば、唐代の禅僧臨済が、
 諸君、ブッダの教えは工夫を用いることがない。ただ、平常無事で、排泄したり、着替えをしたり、飯を食ったり、疲れれば寝たりするだけのことだ。愚か者はこういう私を見て笑う。しかし智者ならばわかる。昔の人も言っている。「外に向かって工夫するなどというのは、大馬鹿者だ」とな。君たちが、どこにいても自己自身でおれば、することなすことみな真だ。外から何がやって来ても、君たちを引き回すことはできない。これまでの無限の生涯に蓄積した悪いカルマがあっても、そのままで自然に解脱の世界に生きることができるのだ。(秋月龍民『臨済録』)
 と言っています。これも仏教用語を用いてはいますが、まったく道教的であり、土着思想に呑み込まれた仏教なのです。
 ちなみに、このようにして、元来は批判的思想であった仏教が土着思想に呑み込まれてしまった結果、われわれが日常何となく「日本的」なり「東洋的」であると感じているものは、神道であれ仏教であれ、今やすべて土着思想なのです。これらが安易な現状肯定でしかないことを見落としてはなりません。そこには創造的変革的な力は微塵もないのです。
(引用終わり)
老子・荘子は「土着思想」と知って以後、次第に遠ざかっていきましたが、しばらくして「いいとこ取り」をすることにしました。この動きこそ「土着化」だと言われそうですが、心理学にも「折衷主義」という立場があって、元の恩師・國分康孝先生はその立場でした。クライエントの提起する問題ごとに、その人個人にもっともふさわしい理論&技法を用いるというものです。次の恩師・野田先生は、「技法の折衷はOKだが、理論の折衷は不合理」だとおっしゃいました。実際、アドラー心理学も、技法に関しては他の心理学からたくさん借用しています。心理学の技法は、いわば人類共有の財産だと言えるからだそうです。でも、理論の折衷は意味がないと。カレーと善哉は別々に食べるとおいしいが、混ぜると変な味になると。
 何だかんだと理屈をつけて、また老子・荘子を読み返そうとしています。常々言っていますように、まさに今は乱世の感がしてきたからです。

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