MENU
64,501

スレッドNo.192

論語でジャーナル

15,子游曰わく、吾が友張(ちょう)は、能くし難(がた)きを為すなり。然れども未だ仁ならず。

 子游が言った。「私の友人の子張は、他人がなかなかできないことをやり遂げる。しかし、まだ仁とは言えない」。

※浩→その人にはできても、他の者はついて行けない行為は、必ずしも人道的でない。誰にでもできそうでできない、その平凡にして非凡なのが本当の人間らしさであると考えているようです。他人がなかなかできないことをやり遂げる人がたくさんいます。そういう人たちの凄さにいつも感動していますが、時に強い劣等感を感じることがあります。特にスポーツや芸能で。ですが、その人たちが必ずしも最高の人格者でもないという子遊の言葉で救われます。有名人が犯罪を犯したり、禁止薬物を摂取して逮捕されたりしています。誰も完璧な人間ではありえないですが、かなり配慮が足りないように思います。
 技術や行為での優秀性(徳)とその人の人格そのものの優秀性(徳)とを区別するとわかりやすいです。「徳」というのは一般的に言えば、人間が単なる動物的存在から脱して,動物的でもあるが同時に理性的でもあるという真の人間らしさ、人間としての優秀性を体得している状態のことをですが、ギリシア語のアレテaretēは元来、「優秀性一般」を意味しました。のちには人間に特有の精神的・道徳的優秀性を特に意味するようになります。ソクラテスは「徳は知である」と考えました。プラトンは「四元徳」で「知恵」「勇気」「節制」「正義」でした。アリストテレスは、「知性的徳」と「習性的徳」でした。だんだん、「人間としての優秀性」を表すようになったのですね。ところで、アドラー心理学では「多重人格モデル」というのを野田先生が提唱されたことがあります。えー!?ライフスタイルはひとつのはずなのに。???そうなんです。ライフスタイルは下の図で「無意識的自己」につながる「自我」の部分です。ところが「無意識的自己」から複数の「ペルソナ」が出ていて、これらが「人生目標を追求する」ライフスタイルとは別人格に見えるのです。同一人物がさまざまな場面、対人関係に応じて、多様の行為をすることがこれで説明できます。催眠療法では、催眠誘導をして「ペルソナ」を呼び出すんだそうです。

          自我
    ペルソナ  |   ペルソナ  ペルソナ
     |    |    |    |
  ~~~|~~~~|~~~~|~~~~|~~~
     |    |    |    |
  -----------------------
       無意識的自己(無意識さん)
  -----------------------

 治療・援助で「代替案」を導くとき、この理論を用いるとうまくいくことが多いです。例えば、「行為と人格しっかり区別 人格裁かず行為に注目、してほしいことほしくないこと 感情交えず伝えよう」と『勇気づけの歌』(野田俊作・作)にもあります。この場合は、子遊の言葉と逆で、もしも子どもが不適切な行為をしていても、その子の人格まで良くないとは考えないことです。「悪いことをしていも悪い子ではない」と考えると、援助しやすくなります。学校の生徒指導が応用すればいいのに、全然採用されないのが残念です。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top