論語でジャーナル
23,子曰く、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。
先生が言われた。「君子は人の言葉のみによって人を推薦することはなく、誰が言ったかによってその言葉を捨てることはしない」。
※浩→孔子は、口先だけの弁舌や理屈によってその人物を官職に推薦するようなことはしませんでした。しかし、「誰が」言ったかではなく「何を」言ったかを重視していて、自分が認めない人物が言った言葉でも、その言葉に価値があればそれをむやみに捨てることはしなかったのです。言葉だけで人間を尊重抜擢しないのは、「憲問篇」の「言ある者は必ずしも徳あらず」だからです。また、気に入らない人が言ったからといって、その人の言った言葉を無碍に廃棄するのは、対人関係において慎むべきである、というのは、『礼記』に、「愛してしかもその悪を知り、憎みてしかもその善を知る」と通じます。これは吉川先生の解説です。深く納得します。人を見るとき、固定観念に縛られてはいけないということで、肝に銘じています。「あいつの言うことだから信用しない、あの学派の言うことだから何でも反対するという態度」から完全に免れうる人が、現在この日本にいるであろうか、とは貝塚先生の言です。野党の発言を思わせます。議会政治は、与野党が拮抗しているほうが、権力の集中や腐敗を避けるために絶対条件です。しかしながら、特に最近の日本は、与党のひとり勝ちで、野党は全部束になっても、かないません。どうしてこんなに人気がないのかは、国会中継などの野党の発言を見ているとわかります。あの人たちは、ほとんど自分たちの政策を出さないで、ただ与党の批判をして脚を引っ張るためだけに燃えているみたいです。まるで一部の週刊誌のようにスキャンダラスなネタで国会を空転させ、与党議員や大臣の失錯が露呈すると、彼らが「責任を取れ」というのは「辞任しろ」と言う意味です。
アドラー心理学では、「責任」とは「仕事をすること」だと考えますから、辞任するのは仕事をしないことです。失敗・失錯の責任を取るというのは、まず、そのことによって失われたもの・ことの「原状復帰」(弁償・賠償)、次に「再発防止策」をきちんと立てること、そして、もしもこのことで感情的に傷ついて人やグループがあれば、きちんと「ごめんなさい」を言うことです。ただ、やめてもらっただけでは、何も責任を取っていません!そういえば、イギリスには「影の内閣」というのがあって、野党が政権を取ったときに政策が常に考えられていますね。
私事ですが、私は10月4日をもってスクールカウンセラーの職務を辞任しました。おやおや、これは無責任ではないか!?実はこれは無責任ではなくて、学校側から生徒の相談内容を開示するよう要請があったため、私は「守秘義務で言えない」という態度をとりました。すると学校側は、「学校運営上必要だ」と迫りました。この「学校運営上」というのは「生徒指導上」と言う意味です。私が相談内容を暴露することはカウンセラーが来談者の味方から学校側の味方になったことになり、これではカウンセラー=弁護士の責任を放棄することになります。かといって、学校の運営方針に真っ向から対立することになると、今後、この学校での私の活動に支障が出そうです。こういういきさつで、ばっさり辞任しました。ただ、これまで熱心に私が講義する研修会に参加された先生方のために、あるいは何かと私を頼って相談してくださった先生方への陰ながらのサポートは継続します。さいわい今は「リモート方式」という便利な手段もあります。これまで月に2回勤務して、相談業務の他に40~45分程度の講義をしていたのを月に1回90分にまとめて、勤務時間終了間近から“おしのび”で講義をすることになりました。もちろん無給になりますが、アドレリアンの活動は、みなボランティアですから、私もそうします。