プロになるということは?
Q0382
プロになるということは?
A0382
よその領域はわからないけど、医者にはGPといってgeneral practitioner(一般医)というのがあるんです。僕はGPのプロなんです。GPというのは、“なんでも医者”。外科医とか内科医とかは今はもういない。外科医に何でもできる外科医はいなくて、脳外科医はいます。胸部外科医はいて、腹部外科医はいて、整形外科医はいて、全部バラバラになったんです。内科医も、循環器内科とか消化器内科とか専門家がいて、消化器内科の専門家は循環器のことを知らないです。内分泌を知らないです。それだと困るじゃないですか。だから、GPさんがいて初めて患者さんと会う。患者さんが病気になって、「どっか具合が悪いんですけど」「どこが悪いのかねえ、ちょっと相談しようか」と言って、「目まいしているけど、これは耳鼻科の目まいだから、耳鼻科へ行って」とか「これは脳外科かもしれないから、脳外科へ行ってちょうだい」とか、「これはうちで診られる。薬を飲んだら治る」とかいうのを見分ける、最初の段階のお医者さんというのがいます。primally careというんですが、このごろみんな英語で言いますね。プライマリー・ケアー医というのがいて、これは昔すごく軽蔑されていたんです。“なんでも医者”って、そんなの要するに開業医じゃないか。そんなのは専門家と違うって。でもねえ、一番必要なのはそういう医者なんです。何でもないような病気、病気なのか病気でないのかわからないけれど、それにつきあってくれるお医者さんとか、恐い病気を見つけて「あっちへ行きなさい」と、「自分ではよう治さんけど、これは循環器内科へ行ってください」とか、仕分けをするお医者さんのプロでいたいと、若いときから思ったんです。若いときに、外国で働ける医者がいいと何となく思ったんです。アフリカとかアジアとか、そんなところでお医者さんをしたいと。そのためには、まずGPさんでないといけない。大外科手術はできないけど、怪我を縫うくらいはできる。異常なお産は諦めるけど、お産取り上げてくれと言ったら、助産師さんと一緒に取り上げる。目にゴミが入ったと言ったら、眼科ができる。耳鼻科ができる。もちろん内科もできるというようなお医者さんになっておこうと思って、最初、そんなつもりで内科研修を受けました。わりといろんなことをやりました。あんまりスペシャリストにならないように、いろんなことをしました。ところが今は、プロはスペシャリストだと思われている。
スペシャリストでなくてプロってあるんです。それはどの領域にもきっとあると思う。例えば、店頭で販売の売り子さんで、プロの売り子さんていると思う。特殊な技術があるわけでなくて、お客さんにただスマイル。お客さんの話をちゃんと聞くというような、それがプロの売り子さんだと思う。だから、自分が今働いている場所で、働いていることについての知識と技術と知恵を持っている人になろうと思えばそれでいいんじゃない。あまり特殊分化、専門分化するよりは、わりと手作りレベルでいろんなことができるというのは、これから大事なことだと思う。あまりにも学問が細分化しすぎました。みな全体の見通しを失ってしまいました。ものすごく基本的なことが見えなくなっているような気がする。どの領域でも。だから、さっき国債のことを話したけど、国債ってギリシャのようになりますよと、そんなん誰が考えてもなりませんよと思うけど、ほんとの経済学者なんかがそう言うんですよ。あまりにも視野が狭くて、見えてないんだと思う。今増税したら大変ことになると言うけど、財務省の官僚とか経済学者とかが増税しかないと言う。そんなことないと思う。僕たちコモンセンスで重みはないんだけど、プロ日本国民として日本国がこれから先良い国であってほしいと願っている人なので、目先の利益でなくて長期的な視野で僕らの子どもの時代、孫の時代にこの国が住みやすい国であるために、いったいどうしたらいいんだろうねと、考えます。最初切実に感じたのは、山登りをしていて、山の中がどんどん荒れていくことです。若いときから山登りしていたけど、どんどん荒れていって、山抜けといって崖崩れが起こるし、何であんなとこにゴミがあるのかというような場所にゴミがあるし、だんだん良くなくなる。まあ、砂防ダムのようなものを山ほど工事するもんだから、渓流がみんな死んでいくし、動物が住まなくなるっていうのを、何年も登っているうちに、だんだんだんだん荒れていくのを見ていたんです。でも、政治家たちは現場を見たことがない。官僚と政治家が東京で籠って、机の上のプランでやってくれているけど、それは違うよって。現場を見たらすぐわかることを、東京大学を出た偉い人が集まって考えたら、わからないんだって。だからほんとの意味での一般市民が、肌で感じている感じというものを、大事にしたいし、その中で、例えば、僕が美しい山へ登った、美しい谷へ登った、その体験を子どもたちができるようにしたいけど、もう無理。僕らの子どものころにはそれはできない。孫たちには絶対無理。僕たちにできた美しい体験を、子どもたち孫たちにできるようにと、根本のところでスイッチを掛け替えないといけない。今の政治のやり方、教育のやり方はそっちを向いていない。日本の風土を大切に子孫に受け継ごうって思ってない。日本の風土は自然じゃない。全部人工です。日本は二千何百年前に農業化して、日本中すべての土地に人間の手が入っている。山奥まで入っている。イワナというのは、昔の木こりさんが滝を昇って上へ放流した。そこで釣れたら、食べないでもう1つ上の滝へ放流した。それを何代何代もやって、万が一山の中に閉じ込められたときに、イワナを食べて生き残れるようにと、子孫のためにどんどん上へ上げていった。そういうふうに、ほんとに山の奥まで人間の手が入っている。人間の手が入って、人間と自然との相互作用で作られた美しい風土なんです。それが、人間の手が入らなくなったとたんに荒れてきている。林業を日本国が切り捨てました。単純な理由で、外国から材木を買ったほうが安いからです。さんざん植林させて、その植林させた杉の木、檜を、今、使われていない。外国の杉、檜が安いのもあるし、それから、建築用の足場を今スティールパイプにしている。あれは昔は全部木だった。杉や檜を使っていたけど、スティールにしたから、山は伐採も何もしないでほったらかしにしてある。美しい自然が、相互作用の中で保たれていたのが、その相互作用がなくなった。農村は、田畑をみんなで一生懸命手入れして、庭のように美しくしていたのが、相互作用がなくなったから、どんどん荒れていく。変な植物が生え、変な花粉が飛び、変な虫がいる。だから、自然を守るんじゃない。もう1回、僕らが国中を耕すんです。これは農業、林業、漁業の問題です。そこのところを忘れて、何か、工場として国を考えてしまったことが間違いだったと気がついた。そうしている限り、国土が荒れていって、子どもたちが良い体験ができない。国土を愛することができない。いったい何が起こったのか、自分でも勉強してみたり、それについて情報発信し続けよう。それをどう解釈してどう行動するかは、聞いた人の決めることですが、「私がしなきゃいけないのはこんなことなんですよ」と言い続けることだと思っています。(回答・野田俊作先生)