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スレッドNo.207

論語でジャーナル

22,衛の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に問いて曰わく、仲尼(ちゅうじ)焉(いずく)にか学べる。子貢曰わく、文武の道は、未だ地に墜(お)ちず。人に在り。賢者はその大なる者を識(し)り、不賢者はその小なる者を識る。文武の道あらざること莫(な)し。夫子焉にか学ばざらん、而して亦(また)何の常の師かこれ有らん。

 衛の公孫朝が子貢にたずねた。「あなたの孔先生は、どこで誰について学問されたのですか?」。子貢は答えた。「文明の創始者の文王・武王の教えは、地上から完全に消え失せたのではなく人々の間に残っている。すぐれた人はその重要なものを記憶しているし、すぐれない人も、その小さなものを知っています。天下至るところに、文王・武王の教えが存在している。孔先生は、どこででも学問されなかったというところはない。そしてまた定まった先生を持たれなかったのだ」。

※浩→「公孫朝」は同名の人物があちこちにいたので「衛の」と字を加えたと言われます。伝記は明らかでないそうです。衛の君主の一族であろうと推測されます。「仲尼」は孔子=孔丘の字(あざな)。「仲尼」は他人が孔子を呼ぶときの名で、弟子たちは「夫子」「子」と尊称を使いました。
 孔子は特定個人の師匠を持つことはなく、周の礼制や音楽などを理想として掲げながら、世界各地のあらゆる場所で己れの知見と徳性を磨いていったのです。孔子の学問の師は、古代の周王朝の礼楽と文献であり、諸国を遍歴・遊説して出会ったあらゆる人たちです。孔子の人生そのものが「真剣な学びの軌跡」であったとも言えます。
 私の師匠としては、まず、教師になるきっかけをくださった丸の内中学校の社会科の先生・高崎毅先生です。とてもわかりやすい授業で、しかもいつもスーツをかっこ良く着こなして、ダンディそのものでした。お人柄は温厚で、親しみやすかったです。「わっ、かっこいい!こんな先生になりたい」と、自分も教師になる決心をしました。その後一直線に、大学は教育学部へ進み、就職事情を鑑みて高校教師になりました。カウンセリングを勧めてくださったのは、大学の指導教官・虫明竌(ただし)先生でした。先生は「倫理学」「社会学」が担当で、「一般教養」の「倫理学」最初の講義で自己紹介されたとき、お名前の「竌」の読み方を解説されました。「机が立っているのはただしい」から“ただし”だと。この漢字は先生のお名前のほかで使われているのを見たことはありません。この講義で、「倫理学」は、考古学や地理学や日本史のように、現地調査や古文書解読などが必要なく、書物を丹念に読むことで学べる、とおっしゃったことが、貧乏学生の自分には最適だと、即、「専攻科目」を「倫理学」にしました。なんて安易な決断でしょう!2番目の赴任校(高梁工業高校、当時は高橋南高校でした)で指導に行き詰まったとき、恩師虫明先生に相談に行ったとき、確か、ロロ・メイのカウンセリングに関する本を貸してくださいました。むさぼるように読みました。これがこの道に進むきっかけです。その後、岡山工業高校で教育相談室に配置になって以後、國分康孝先生や野田俊作先生に出会いますが、こちらはこれまでにあちこちで紹介してきましたとおりです。

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