言いたいこと言うと人間関係が悪くなりそうで言えない
Q0386
私にはどうしても人間関係を悪くしたくない人がいるのですが、私もその人も男性です。その人が私から見て、ちょっといけないと思う女性とつきあっています。つきあってだいたい4年ぐらいになり、正式に結婚されています(奥さんなんだ)。いろいろ話を聞いていると、この女性はやめたほうがいいのではないかと、よく思います(なんだ、こりゃいったい)。もちろん彼の人生なので、私がとやかく言う権利はまったくなく、彼と彼女がお互いOKなら、他の人がどうであろうと、それでOKなのだと思いますが、いろいろ聞いていると、「私ならそんな女性と別れるが、あなたの人生だからあなたがどうするか考えて自分で決めて」とつい言いたくなります。けど、そんなことを言うと、彼が激怒して人間関係が悪くなるのが恐く、また私が口出しすべきことでもないとも思い、言いたくても言えません。それに今から離婚となると、大きなトラブルになるし、彼も彼女の人生もめちゃくちゃになるし、もしも裁判にでもなったらそれこそ大変なので、何も言えませんが、彼がこのままの人生を送っていっていいのかと思い内心焦っています。私の意見を言っていいのか、言わない口出しをしないのがいいのか、大変悩んでいます。本当にプライベートなことなのですが、真剣なので、どうかよろしくお願いいたします。
A0386 なんで言いたいのか瞑想してごらんよ、自分の欲を、自分の汚れた心を、世界征服の野望を。僕たちは世界を変える権利はないんです。自分自身を変える権利だけあるんです。人間は、私がどう生きるかは私が決めればいいです。もちろん、大犯罪者になってもかまわないです、権利的には。でもそれしますと、その分の見返りがあって、自分も不幸になるし、他人も不幸になるという結末もあります。ほんとはそうではなくて、世のため人のために役に立つ人になったら、自分も幸せ他人も幸せになるでしょう。ならないかもしれないけれど、確率は増えるんです。宝くじを買えば当たる確率が増えるように。でも、他人については自分の子どもであっても配偶者であっても、改造できないと思う。私と接する中で、向こうが影響を受けて変わるのは、これは大事なことで、すごい影響力のある父とか教師とか妻とか母とかであるのはいいことだと思う。見習いたいような人生を送っていて、その人をモデルにして暮らしたいと、人々が思うなら、それはとてもいいことだと思うけど、あの人の言っていることはまともだけど、やっていることは変よねとか、言っていることもやっていることも変よねと思われてしまうようなわれわれ、私たちってそのレベルだと思わない?自分のことをちょっとゆっくりと冷静に考えてほしいんです。そんな人から模範として仰がれるような人物かしら。みんなが私のことをモデルにし、私のように生きたいと願うようなそんな人間かしら。僕も違うから、あなた方もきっと違うと思うんですよ。その人間が他人の人生を変える?つまり、自分の不幸まで他人を引きずり下ろす?そんな権利があるわけないじゃないですか。
こうやって他人の人生を変えたいという欲望はいったい何なのか。それは何を目指しているのか。たぶん、深いところで考えると、世界を自分の好みの色に塗り替えたいんです。何もかもが私の願いどおりに動く世界にしたいんです。じゃあ、あなたの願いどおりに動く世界には、絶対あなた以外の誰も絶対に住みたくないんです。イヤなんですよ。私だってそうなんです。私は、いつも言っていてみんなに不思議な顔をされるんですけど、アドラー心理学を普及したくないことはないけれども、公的な方法、例えば大学とか、文科省の教科書になって、中学や高校の必須科目になって、アドラー心理学的人間関係のあり方について、学校で教えるなんて、地獄だと思う。そんなの絶対間違った世界だと思う。子どもたちはもっともっと多様な場所から多様な選択ができるべきで、こんなものが公的機関から押しつけられるのは間違っていると思う。私がこうやってそれをしゃべっていることで、それを聞きつけて、誰かが来て聞いてくれて、「ああ、これはいいな」と思う人は残り、「つまらんよ」という人は去っていくのが、最もまっとうなアドラー心理学の普及法だと思っている。自由競争の世界で暮らしたいと思っている。インドに行くと、ヨガとか瞑想とかのお師匠さんたちがいっぱい住んでいる場所があっちこっちにあって、一番有名なのは、北インドのヒマラヤの麓にリシケシというところがあります。リシケシへ行くと、ギリシャふうのおうちなんです。大きな建物は列柱がいっぱいある。その柱の1本ごとの根元にお師匠様が座っていて、お説法なさっているんです。お釈迦様みたいに。ヨガというと、みんな逆立ちするとか思うけど、インドのヨガは逆立ちするだけの話ではなくて、お釈迦様のように人生の深い根本の真理を解き明かすものですから、毎朝お説法しているんです。生徒さんたちは、ある先生のところへ行って、お説教を聞くんです。その人たち・説法なさっている人たちは出家ですから、神様仏様にあげるように寄付をして聞きます。次の日にそのお師匠様のところへ行くかどうかは、生徒が決めます。次の日も続けて来るかもしれない。5年間続けて来るかもしれないし、20年間続けて来るかもしれないし、あるいは全然来ないかもしれない。あれは良い教育システムだと思う。完全な自由競争です。生徒は全部の先生の講義を聞いて回れる。それから自分の先生を決めることができる。もちろん質問もできるし、討論もできる。日本の学校制度は、大学に至るまでそうなってない。ほんとの意味で自由に生徒が教師を選べない。そこでアドラー心理学を教えるのはイヤなんです。ほんとの意味で生徒が自由に教師を選べる場所で教えたい。というのは、僕は世界を自分の色に塗り替えたくないから。私の色もかなり間違っているから。その間違っている色から皆さん方がちょっと持って帰って、皆さん方の色を配合したり、他の先生の色を配合したりして、もっと良い色を作って、世界がパステルカラーにいろんな色になるのが一番良かろう。アドラー一色なんてそれは気持ち悪いからイヤです。
だから、他人の結婚生活とか、社会生活とかに口出す気は全然ありません。私のところへ来て、「野田さんカウンセリングして」と言ったら、それは私の考えを言うかもしれないけど、それはあくまで私の考えで、こうしなさいああしなさいは、何もないんです。あなたがどうするかは最終的にはあなたが決めるんです。あなたが決められるようにあなたの話を聞きましょうと思っているだけです。わかりました?(回答・野田俊作先生)