子どもを学校へ行かせる必要はないと言う母親に
Q
中学校の教員です。この春の新入生の中に小3から不登校の生徒がいます。その生徒の姉2人も不登校でしたが、不登校生徒を受け入れる高校に進学し、大学進学への道も切り開きました。そこで母親は「必ずしも中学へ通う必要はないと思います。中学へ行かなくても進路は何とかなります。だからわが子に中学へ行きなさいと言う気はありません」と言われます。学校としては登校してほしいと願っていますが、このような母親に対してどういう話をしていったらよいでしょうか?循環的話法を使うとどんな対話になるんでしょうか?
A
学校の先生に対しては「諦めなさい」と言うほうがどっちかというといいんですが、昔1980年代には私は再登校に非常に熱心派だったんです。日本の臨床心理の中で、「あいつ再登校ばっかり言ってる」と言われていたけど、90年前後ごろから不登校のままで大人になれるルートが整理されてきたんです。大学へ行く進路もできてきたし、塾もできてきたし、高校もできてきた。その一方で学校側の受け入れ体制はそれほど進歩していない。そうなると、親と子どもの利害だけ考えると、再登校はあまり強く勧められる線ではない。絶対ダメというわけではないけど。親のほうとは話をよくしますが、わりとアナーキーというか、放任的な親が多い。放任的というのはこういうタイプ、「学校行かなくていいわ」というタイプ。結局「最終目標」は何かを考えていない。大人になったときに、この社会、この国にどういう形で貢献するかについて、職業選択、社会の中での暮らし方について、親もあまり考えたことがないし、子どもともあまり話し合ったことがないという親が多い。もっともこれは不登校の親だけでなく、今の親はみんなそうなんです。今の親はみんな、まあ学校だけは出しましょうと、人並みに学校出しましょう。それが高校なのか大学なのか大学院なのか知りませんが、学校さえ出せば何とかなるでしょうという発想で、そこから先のことについてあまりイメージがない。どっかの会社に就職して、あとは会社の言うとおり。人事課がああしろこうしろと言う。子どもが人生を考えてもしょうがないと、そういう捉え方をする。それは問題だと思う。人間の人生というのは、その人個人の人生で、人事課がどう言おうが役所がどう言おうが、自分で決められる裁量権があるでしょう。こういう仕事をしたい、例えばお金を扱う仕事をしたいとか、機械を作る仕事をしたいとか、そういうイメージをはっきり持ってほしいし、そのためにどんなことを準備をしていけばいいかということで初めて学校というものが出てくるわけでしょう。学校というのはどこまでいっても手段なんです。目的は社会です。目的が決まらないと学校をどう扱うかわからない。僕が親と話すときは、「じゃあこの子を結局どんなふうにするんですか?子どもというのは粘土のようなもので、それ自体では何も使い道がない。でも粘土をお茶碗にしたり花瓶にしたりタイルにすると使い道ができます。どんな形に作り上げようとしますか?学校へ行くと、そういうふうに形作ることがとても簡単なんだけど、学校へ行かないんだったら親と子でうんとたくさん話し合って考えないと、粘土のままで大人になってしまいますよ。だからよく話し合って考えましょうよ」とまあ言います。だから学校でも先生が「じゃあ、この子が大人になって何をしていくのか考えましょうや」という話をしていく中で、親が、中学校へ行くことが子どもにとって必要なのかどうかを考え始めると思う。みんな「学校の位置」というものを見失っていると思う。学校というのは社会に所属するための手段です。(回答・野田俊作先生)