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スレッドNo.280

民主主義とアナーキズム

Q 
 今日はクラスの指導についてのお話だったので民主主義を強調されていたように思います。民主主義とアナーキズムについて、学校現場での対応、違いを教えていただけませんか?

A
 かつて権威主義的だったんです。第二次世界大戦以前の学校を考えると、かなり権威主義的教育をやりました。明治の初めに教育をしなきゃいけないと国が思った。それは、お殿様がいてお百姓さんがいた国から、政府があって、工場で働くとか軍隊に行くとかの暮らしができる人間をつくらなくてはいけなくて、そのためには知識もいるけど、何よりも「集団行動」ができるということ。朝の8時半に全員来てくださいねって、お昼まではみんな机について勉強してくださいねって、お昼休みは1時間の間にちゃんとご飯を食べてくださいねっていうのを、きちんとしないと成り立たなかった。江戸時代はそんなことはなかった。江戸時代は集団行動をしなくても、この国はのんびりと成り立っていたけど、明治になって西洋の植民地主義者たちと争って、この国を占領されないようにするためには、集団行動ができないといけない。集団行動ができることをすごく重視したので、かなり強圧的に集団行動ができるタイプの学校教育を作りました。それでも日本の学校教育は、西洋の学校教育よりもよっぽどマシみたいに思う。西洋には、ペスタロッチという人がいて「体罰をしない教育」を言っているけど、ということは体罰する教育がいっぱいあったわけですよ。「チップス先生さようなら」というイギリスの小説があって映画にもなりましたが、なかなか恐いですね。バチバチ叩くんですよ。そんなのがこの間までごく普通にありました。あれに比べれば日本の学教教育は戦前でもマシだったと思う。それでもそういう教育に対する反省がすごくあって、今度は極端な側に走った。人間って、1つダメだと反対側へ行くんです。それで今度は「躾けない教育」になった。それは「最後どうなるか」というイメージがないからだと思う。最後、この子たちが何をしていけばいいのか?何をしていけばいいのかというときに、家族とか社会とかあって、そのときに「国」を飛ばして「世界」へ行くんです。「日本の国」とか「国家」とか「民族」とかがすごく言いにくい言葉になっていて、そうなるとどうやって教えていいかわからない。「社会」って抽象的です。「人類」も抽象的です。でも「日本国」は具体的です。僕らは日本国をイメージできます。この間、野球の世界選手権がありました。世界選手権があったら皆日本国をイメージするでしょう。でも、人類はイメージしにくい。社会もイメージしくい。イメージしやすい、われわれの、領域で囲まれて何千年か人たちが暮らしてきたこの国の後継者になる子どもたちを育てるんだと思うと、民主主義であれ権威主義であれ、教師が何をやったらいいかわかるけど、そこをなくすと、何をやったらいいかわからない。何を結局教えればいいのか。この国をもっと良い形に守り育てていく、戦前の軍国主義もいけないけど、今の金権政治もいけません。もっとちゃんと国民の利益を思い、国が発展していくような、そういう政治が行われるようなそんな場所に守り育てていく。そのためにみんなが学ばなきゃいけない、みんなが行動しなきゃいけないんだをっていうことを教えたい。それが、今、学校教育がただの多数決民主主義、目標のない民主主義、結局どうしようかわからないで、目標の一致がないままで、ただ目先目先の出来事を「どっちが多いか」で決める民主主義になっている理由だと思う。それは学校だけじゃない。国会がそうです。各都道府県議会もそうです。日本中の議会が全部そうです。会社の重役会議もそうです。会社はまだちょっとマシです。会社は「金儲け」という目標だけははっきりしているから。自分の国というと、一体どこへ行こうとしているかよくわからない、私も。日本国は一体どこへ向かって動いているのかわからない。だから民主主義が機能しない。われわれがどこへ行こうとしているのかをもう1回意識し直すと、それに向かって、権威主義的か民主主義的かの選択ができるんです。そうでない、将来を見渡さない、目標を立てないのは全部放任主義的なんです。目先の快楽だけになりますから。(回答・野田俊作先生)

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