生徒に「もっとほめて」と言われる:「ほめる」と「勇気づける」の違い
Q
高校の教員です。生徒にもっとほめてほしいと言われたんですが、どう対応したらいいんでしょうか?
A
アドラー心理学では「ほめないほうがいい」と言われています。もちろん、叱るのは絶対に禁止です。感情的に怒るのも良くないし、相手の問題点や欠点を指摘するのもやめたほうがいい。いろんな意味でそう言われています。
どうしてかというと、まず対人関係を悪くします。「あなたのここが問題だよ」と冷静に言えて、相手もそれを冷静に受け止めることができるだけのコミュニケーションが成り立っていればいいかもしれないけれど、でも普通はそういうコミュニケーションを持てていないはずです。だから対人関係が悪くなって憎まれます。憎まれると相手を助ける力が減っちゃうんです。だから、ここで正しいことを教えなくてはということと、相手と仲良くしなくてはということとの二者択一になる。正しいことを教えることと仲良くすることはどちらがいいかというと、仲良くするほうがいいんです、いつでも。
それから叱ったり、「これがいけない」と言って育てると、いけないことはたくさん覚えるんですが、良いことは覚えない。してはいけないことばかりで、頭の中が「べからず、べからず」ばかりになります。そうすると消極的になります。臆病になって勇気がなくなってしまう。これもとてもまずいですね。
大阪に、ある芸者さんの踊りがあって、地味な踊りなんですが、そのお師匠さんはもう70いくつになる人間国宝です。そのおばあちゃんがいつも言っている。「私は一度も弟子を叱ったことがありません。いつでも上手だ、上手だと言っているんです」。なぜ叱ったことがないのかというと、「叱って育てた踊りは小さい」と言われる。「最初はムチャクチャなんだけど、それでも伸び伸びとやっていて、そのうちだんだんと本人がわかってできあがった踊りでなければ、お座敷に出せない。叱ってオドオドとできた踊りは小さく固まってしまって面白くない」と言うのね。本当にそうなんだろうと私も思います。
最近日本人の音楽家が増えましてね。外国のオーケストラにもたくさん日本人が入っています。でもよく言われるんだそうです。「日本人の音楽家の音楽は面白くない。とても上手だけど何にも面白くない」。叱って育てられていますから。メチャメチャお行儀がいいだけで、とても消極的で、すごく臆病です。より創造的で新しいやり方を覚えないですね。
それから第3番目に、叱って育てると、叱ってくれる人がいないところではやってもいいと思うでしょう。罰せられなかったらいいと思う。非行少年たちはみんなそうです。泥棒をしてはいけないなんて、みんな知っているんです。「君たちは泥棒というのはいいことだと思うかい?」と聞くと、「そりゃ悪いと思うよ」と言う。「じゃあ、どうしてしたんだい?」「見つからないと思ったから」と答える。見つからなかったらしてもいいと思う。これは叱って育てられた証拠です。心の中に正しいとか間違っているという善悪の判断基準がなくて、外側にある。怒られるからこれはやめておこうとか、見つかったら困るからやめておこうとか、自分の内側に道徳がない。子どもに聞いてみてください。きっと、「そんなことをしたら叱られる」とか、「怒られるからやめとこう」などというものの言い方をします。
そういうわけで、叱るというのは絶対に禁止です。そして、ほめるというのも良くないんです。まず最初に、人をほめるためには相手のやっていることを良いとか悪いとか、こっちが判断しなければならない。次にそれにご褒美をつけて伝えますね。「君はいいことをした。偉い」と言います。これを「ほめる」と言います。相手のやったことの善悪を判断する資格が私たちにありますか?私たちは裁判官か神様か?
子どもが育っていく過程で、たぶん大人から一番たくさん聞く言葉は、「それは良い」とか「それは悪い」とかに関係する言葉だろうと思う。ずっとそればっかり聞かされている。だから子どもはいいかげん知っていますよ。そして、「それは良い」とか、「それは悪い」とか、ずっとこっちが判断してあげていると、自分に自信が持てなくなる。「はたしてこれでいいのだろうか」自分で自信がなくて、結局、「これでいい?」と絶えず聞きに来る子どもになってしまう。ほめてもらえるかどうか気にするわけです。
ほめるということは、相手が良いか悪いかの判断を、上から下へすることです。私が上でないとほめることはできません。すごく尊敬する人物に対して、その人をほめたりなんかしないです。名医がいて、その人に例えば、「先生は偉いですね。大したものじゃないですか。ちゃんと患者さんを治せますね」なんて言わない。
つまり、ほめるということは、人をバカにしていることです。相手をバカにしているからほめることができる。あなた方の子どもから、「お母さんよく頑張ったねぇ、偉いね」と言われるとイヤでしょう。晩ご飯のときに、「今日のおかずは立派だね。お母さんもやればできるんだねぇ」と言われるとバカにされていると思うでしょう。ほめるというのは人をバカにしているということなんです。僕たちが子どもに向かってほめるというのは、子どもたちをバカにしているということなんです。「テストで100点を取ったの。偉いね」と言うのもバカにしている。相手を本当に尊敬していたら、そんなことは口が腐っても言えないはずです。ほめるというのは、だから縦関係の中で相手をバカにしたときはじめて言える言葉なんだと言うことを知らなければならない。
ほめられたい、もっとほめてほしいという子どもは、バカにされたい子どもです。つまり先生の家来(けらい)になりたい。何のために先生の家来になりたいんでしょうか。この子どもの目的は何でしょうか。それは、ほめられない子どもに対して優越感を持ちたいからでしょう。つまり、先生の家来になることで、もっと下にいる先生の家来になれない子を見下したいんです。
ですから、この子にそれを教えてあげましょう。「君は僕にバカにされたいのかなぁ。ほめられるというのは、実はバカにされるということで、僕にバカにされて家来になって、僕にほめられない子をバカにしたいのかなぁ」と、全部教えてあげればいい。そう言われると、もう「ほめてほしい」なんて言わないでしょう。
何度も繰り返して言いますが、われわれは間違った育児と間違った教育を受けてしまった被害者なんです。だからわれわれの中にも人からほめてほしいという気持ちがある。それに対して、絶えず、「私は相手にバカにされたいのか?」と問い返してほしいんです。人からほめられること、人をほめること、あるいは人を叱ったり叱られたりすることで動くことをやめてほしいんです。そして、ほんとに良いコミュニケーションを人との間に持つこと、ほんとに人と協力し合うこと、ほんとに勇気づけ合うこと、そういう別の形のつながり方を学ばなければならないんです。
では、ほめることと勇気づけることとはどう違うか?
ほめるということはさっき言ったように、相手が良いのか悪いのかを判断すること(つまり裁いている)で、勇気づけというのは、自分が良いのか悪いのか、自分の状態がどうなのかを判断することです。相手がしてくれたことで、それが自分にとって気持ち良いのか気持ち悪いのか、それを縦の関係でなくて横の関係で伝えます。「偉いね」とか「立派だねぇ」とか相手を判断するんじゃなくて、「ありがとう」とか「嬉しい」とか自分の気持ちを伝えることですね。同じような言葉みたいだけど、基本的な態度が全然違います。
子どもに、「お母さん、こんなにおいしいご飯を作ってくれて大変だったでしょう。僕嬉しいよ」と言われたらジーンときたりしますね。それが、「お母さんも頑張ったらできるね。これからも頑張るんだよ」と言われたら、もう二度と作ってやりたくないと思うでしょう。
これは表面に出てきた言葉尻の問題じゃないんです。対人関係に対する基本的な構え方の違いです。相手を支配しようとしているかいないか。相手を良いとか悪いとか判断するのは、相手を支配して相手を変えようとしている態度です。自分がそれで嬉しかったか嬉しくなかったかという態度は、別に相手を支配しようと思ってない。「嬉しかったから、もっとやってちょうだい」と思っているわけではない。「もっとやってちょうだい」と思っていたら、それは勇気づけじゃなくてほめることになります。どんな言葉を使っていても。
だから、「もっとほめてちょうだい」と言われる先生は、きっと勇気づけのやり方が下手なんでしょうね。勇気づけの言葉をちょっと工夫してみてください。例えば、こんな話を聞きました。ある先生が教室の掃除をしている生徒を見て、「おお、きれいになったな。先生は嬉しいよ」と言ったら、生徒は、「先生のために掃除をしたんじゃねぇよ」と答えたんだって。そこで先生は勇気づけの仕方を間違えた。彼は、「うーん」と黙ってしまった。僕(野田)が先生だったら、そこで、「なるほど!賢い生徒を持って僕は幸せだ」と言います。教室を掃除するという課題は、別に共同の課題でもなければ、教師に対する課題でもない。こんなもので勇気づけられないですね。そういうのを学校の先生は、間違って変なときに勇気づけして失敗する。そのとき教えてもらえるわけです。これは勇気づけてはいけないことだと学ぶことができる。子どもはいつもわれわれの先生です。
僕が出た大学の医学部では、死体解剖というのをやるんですが、死体解剖室に額がありまして、「屍は師なり」と書いてあったんです。「死体というのはあなた方の先生だ」という意味ですね。これは本当にそうで、先生から習うことよりも、解剖させていただく遺体から学ぶことのほうがずっと多いんですよ。あるいは、先生よりも患者さんから学ぶことのほうがずっと多いです。親もそうで、自分の子どもから学ぶことがすごく多いですね。自分のやっていることが適切であるか、不適切であるかは子どもに聞けば一番よくわかる。「お母さんはちゃんとした母親だと思う?それともダメな母親だと思う?」と聞いて、「ダメな母親だと思うね」と言われれば、ダメな母親なんですよ。自分でどう思っていようがね。
勇気づけるというのは、こちらがどんなつもりで言ったって、向こうは別な受け取り方をする可能性があります。コミュニケーションというのは、こちらがどんなつもりで言ったって、向こうが別なつもりで受け取ることがありますから、どっち側が決めるかというと、向こう(相手)側で決めるんです。ある言葉が勇気づけになっているかどうかというのは、「向こう側が勇気づけられているかどうか」で決まるんであって、こっちが勇気づけるつもりで言っているかどうかでは、残念ながら決まらない。だから、子どもたちに教えてもらうしかないです。(回答・野田俊作先生)