MENU
64,709

スレッドNo.370

「叱ること」も必要ではないか?

Q
 先生の講演で、協力の手続きの仕方、協力の素晴らしさ、精神を、今の子どもたちに伝えていくことの重要さを学ばせていただきました。私にとっては、とても新鮮なお話でした。正しい言葉を使う実践など、すぐにもやっていけそうです。
 ただ、「叱るということ」、「感情を込めた話」というのについて、もう少しお話を聞いてみたいです。私は今、これらも子どもたちにとって必要だと考えています。どうなのでしょうか?

A
 それらは絶対必要ありません。まったく必要ありません。私はまったく必要なしに子どもたちを育ててきました。それでちゃんと育ちました。ただし、話し合いはたくさんしました。
 例えば、子どもが真夜中に帰ってきたとします。これはよくする話ですが、うちであった出来事です。長男が高校生のころに、いけないことにパチンコに凝ったんです。それでよくパチンコ屋に入り浸りになりました。パチンコ屋さんは10時までやっています。だからだいたい10時15分くらいに、近所のパチンコ屋さんから帰ってきていました。それがある日帰ってこないので、「あれ?」と思いました。11時になっても帰ってこないし、12時になっても帰ってこない。そのとき考えたんです。もしも交通事故に遭うとか、警察に捕まるとかしていれば、連絡があるはずだ。連絡がないということはどっちでもない。交通事故でも警察でもない。まあどこかへ遊びに行ってるんだろうと思って、私は寝ました。そしたら、午前2時ごろ帰ってきました。それでまあ起きました。午前2時に息子はゴソッと入ってきました。さて、こんなとき父親は、いったい子どもに何と言えばいいでしょうか?私はこう言いました。「お帰り」。それだけ。そしたら息子は「ただいま」と言いました。私は次に「おやすみ」と言いました。向こうも「おやすみ」と言いました。終わり。
 こんなときに話したら駄目です。こっちも寝ボケているので、ちょっと混乱しそうです。向こうも少し後ろめたいところがあるでしょうから、防衛的になるでしょう。だから、その日はもう何も言わないで終わる。これが絶対的なコツです。危ないときには話はしない。話はいつでもできます。
 次の日の夕方に、「ちょっと話がありますが、いいですか?」と話をしました。「昨日は帰るのが遅かったですね。何時に帰っても私はかまいませんけど、都会に住んでいるので(当時、新大阪に住んでいました)物騒だからチェーン錠を掛けたいんです。一応午後11時には掛けたいと思っているので、11時までに帰ってくるか、あるいは朝まで帰ってこないかどちらかにしてほしいんですが……」と言うと、息子は「わかった」と言って、それからは11時までに帰ってくるか、電話をかけて「ちょっと遅くなる」と言うようになりました。叱らなかったです。
 帰ってきたそのときに、「どこに行ってた?」と聞くのは、私は良くないと思う。夜どこに行くかは私が干渉すべき事柄ではなくて、彼が自分で管理する彼の人生の課題だと思うからです。彼がどんな人とつきあってるか、何してるか、私は知らなくていいと思う。ここで問題になっているのは、家庭の管理、チェーン錠を掛けるということに関する問題だとわかりました。でも、急にわかったわけじゃなくて、その晩は寝て、朝からずっとどこをどう話したらいいのか考えて、夕方ごろに、これはチェーン錠の話だけだとわかったからそこで話したんです。これがひと晩待った効果です。夜中に話したら、「どこへ行ってたの?」なんてきっと言うでしょう。それに対して、「そんなん勝手だろう」と言うかもしれない。「勝手だろう」と言われると、こっちもムカッとして何かひとこと言いたくなるかもしれないでしょう。だから十分落ち着いて、十分何がテーマなのか、何を問題解決すればいいのか、ちゃんとわかってそれから話をするほうがいいです。
 例えば、「お小遣いくれ」と言われても、「何に使うの?」とは聞かないことにしています。お小遣いをあげるかあげないかを、向こうがいい使い方をするか、いい使い方をしないかで決めるのは“縦関係”だと思います。私のほうとしては、お小遣いをあげるかどうかは、「お金があるかどうか」なんです。払えるかどうか、それから、向こうが上手に頼むかどうかによって決めようと思っています。
 この間、娘に騙されました。上の娘が、「お父さん、この前会ったときに、『あなたのお誕生日に財布を買ってあげる』って言ったでしょう」と言うんです。「おかしいな、そんなこと言った覚えないよ」と言ったら、「お父さんはいつもそうやって、言っていて忘れるんだから」と言う。私、確かに「そうだな」と思う。いつも言っておいて忘れて、みんなに怒られている。「言ったかもしれん。私は確かにそういう性格だから、言っておいて忘れるからなあ」「そうでしょう。だからねえ、財布を買いに行こうよ」「うん、行こう、行こう」と大阪の街へ出ました。道を歩いていたら、財布屋さんがあって、“大特価!!5割引!!”と書いてある。「あれ行こう」と言うと、「あんなんだったら、お父さんに頼まない」と言う。「なるほどね。じゃあどこへ行くんですか?」と聞くと、「デパートへ行こう。デパート」。デパートへ行ったら、ウワっと目の玉が飛び出るようなブランドものの財布が並んでいる。それを見て娘は、「これ!」って。しょうがないなあ。まあお誕生日のお祝いに、大安売りの1500円くらいの財布でごまかそうというのも、大人の娘を持った親としてはセコイ話だと思って、少し高い財布を買いました。買って支払いが終わったときに、「ねっ、この手はうまくいくでしょう」と妹に言っている。だから私は、上手に頼まれると騙されることにしています。
 叱らなくても、感情的にならなくても、子どもはちゃんと育てられます。そんなふうに育てると、子どもたちは、感情を使って人を支配しない子、他人を罰しない子、そんな子になります。あの子たちが将来子どもを産んだら、きっとそういうふうに子どもを育てていくだろうし、夫婦関係なんかでも、きっとそういうふうにやっていくだろうと思います。一体何をテーマにすればいいのかをゆっくり考えて、ゆっくり話し合う子(人)になると思います。
 罰にはありとあらゆる害悪がありますが、1つだけ利点があります。それはすぐ効くということです。罰すれば、こちらの思いをすぐ効かせられます。例えば登校拒否なんて、法律を改正して「3日以上学校を無断で休んだ者は死刑」にするとすぐ解決できます。こうすると、たいていの子は学校に行きます。しかしこの方法で子どもたちが学校に来たって、その子たちの「体」は来ているが「心」は来ていない。何も根本的な問題は解決してなくて、恐怖で動いているだけです。だから、即効性はありますが、副作用が大きすぎる。例えば人間関係が悪くなるとか、消極的になるとか、人が見てないと悪いことをするとか、恐怖心で動いて人生を楽しめなくなるとか、人を罰することを覚えるとか、いっぱい副作用があります。
 心理学の常識ですが、叩いて育てられた子どもは、大人になったときに自分の子どもを叩くんだそうです。叩かれないで育った子どもは、大人になっても自分の子どもを叩かない。それはそうです。親から教えてもらった方法で子どもを育てますから。だから、暴力はいけませんし、怒りの感情も動物的な原始的なものですから、あれはなくてもやっていけます。(回答・野田俊作先生)

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top