論語でジャーナル
32,子曰く、君子は道を謀(はか)りて食を謀らず。耕して餒(う)えその中(うち)に在り。学びて禄(ろく)その中に在り。君子は道を憂えて貧を憂えず。
先生が言われた。「君子は道(道徳)を得ようと考えるが、食を得ようとは考えない。農耕は生活を安定させる道ではあるが、飢饉などで飢えることもある。学問は生活の手段ではないけれど、「禄(経済的幸福)」への要素も内在する。君子は道のことを心配するが、貧乏なことは心配しない」。
※浩→食事や俸給を心配しないで、道(理念・道徳)の実践を心配するのが君子の生き方だと孔子は説きますが、現実には、明日の食事や俸給を気にしないで生活するのは難しいでしょう。このことに関しては、貝塚先生が、「食を得ることと目的に学問していないのに、学問ができあがると自然に諸侯や貴族に招かれて俸禄にありつける」という、この逆説がないと、ここは単なるお説教に終わる、と解説されています。
高校では2学期に就職試験で合格が決まると、その後の学習意欲が低下するということが起こっていました。先生方は、卒業の3月まで生徒を学校に引きつけるのに一苦労なさるとか。これでは学校は完全に「予備校化」してしまっています。お勉強することの目的を間違えています。普通科でも、大学進学が決まったら、そのあとはもう学校へ来ないのでしょうか?私が高校生のころ(かなり昔ですが)、卒業式が大学受験(私立)の日と重なる人は、式を欠席していました。これはまあ理解できますが、合格が決まったらあとは登校しないなんてことはまったくありませんでした。学園生活はそれなりに楽しくもあり、部活動もあるし、日々の友人たちとの暮らしも大切で、よほどのことがない限り、欠席することはありませんでした。
こういうことを考えると、孔子の時代に学問をする人たちは、純粋に学問の意味を理解して、正しく学んだかというと、決してそんなことはなくて、だからこそ、孔子がこうして戒めたのでしょう。ということは、いつの時代でも、きちんと意味を理解して学ぶ人はそうするし、しない人はしないということになるのでしょう。今、卒業式まで生徒を学校に引きつけるために悩まれている先生方は、やはり、生徒たちがクラスにきちんと所属できて、楽しく学べる工夫するしかないのでしょう。それと、昔は家の居心地が今ほど快適でなくて、学校にいるほうが何かと快適だったことも関係があるのでしょうか。わが家はそうでした。友人にはリッチな家の子もいましたが、ちゃんと学校には来ていました。今は完全におつきあいがなくなってしまった中学時代の池田秀彦君とか、高校時代の岡村鉄夫君とかはご存命かどうかも不明です。
貧苦に耐えながら学んで、その後、幕府の要職に就いた荻生徂徠のことは、落語の「徂徠豆腐」でもよく知られています。以前、ここでご紹介したことがあります。ネットであらすじがわかります。↓
荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)は江戸時代中期の儒学者で、この『徂徠豆腐』は徂徠が幕府側用人の柳沢吉保に重用されたことから「柳沢昇進録」の一部として読まれることがあり、また、元禄赤穂事件の際には赤穂浪士の切腹論を主張したということで「赤穂義士外伝」のひとつとして読まれることもある。最近は落語でも演じる人が増えている。
あらすじは、→
荻生徂徠(おぎゅうそらい)は江戸の芝(今の港区)に学問所を開くが、弟子はなかなか集まらない。最初のうちは身の回りの物を売って生計を立てるが、まもなく売る物もなくなり生活が成り立たなくなってきた。11月の中ごろ、3日間なにも食べていない。そこへ「とーふ、とーふ」と表を豆腐売りが通りかかるので、冷奴を1丁買って、醤油を少しかけてあっと言う間に食べてしまう。豆腐売りは上総屋七兵衛という。代金は4文。細かい金がないからと言って支払いは次回にしてもらう。その日はそのあとに口に入れるのは水ばかり。翌日の朝、七兵衛からまた冷奴を買う。今度は何もつけずに食べてしまう。今日も細かい金がないと支払いは先延ばし。これを繰り返しで5日目に、七兵衛は「今日は釣銭を準備してきた」と言う。徂徠は「細かい金がないなら大きい金もない」と打ち明ける。おかしな理屈に妙に納得する七兵衛。それならば晦日(みそか)にまとめて、と七兵衛は言うが、それも当てがないと徂徠。話を聞けば、豆腐1丁で1日を過ごしていると言う。徂徠の家には書物が山ほど積まれているが、本は自分の魂だがら決して売らないとの言葉に七兵衛は感心する。七兵衛は「おにぎりを毎日持って来よう」と言うが、自分は乞食ではないからとこれを断る。またも感心した七兵衛は商売の残り物である「おから」を煮付けて持ってくることにすると、それならOKと徂徠。それから毎日毎日、親切な豆腐屋はおからを徂徠の家届ける。
七兵衛は熱を出し7日間ほど自宅でうなされ、徂徠の家には行けなくなりました。元禄15年12月14日、久しぶりに徂徠の家を訪ねるが不在。そしてその夜半、本所松坂町の吉良邸に赤穂浪士が討ち入りをして、翌日江戸の町は大騒ぎである。
その最中のこと、隣家が火事になり、そのもらい火で上総屋は全焼。七兵衛夫婦は着の身着のままで逃げ出すが、何もかも失い一文無しになる。友だちの家へ身を寄せているが、そこへ大工の吉五郎という者が七兵衛を訪ねてやって来る。吉五郎は当座の分だとして十両の金を与え、焼け跡に普請をしていると言うが、何のことだか七兵衛はさっぱりわからない。
年が明けて2月の初旬のこと、吉五郎が立派な姿の武士とともにやって来ました。このご武家こそ「冷奴の先生」荻生徂徠である。七兵衛が家に来なくなって2日目のこと、「柳沢美濃守様から登用され八百石取りの身分になった」と徂徠は語る。七兵衛から受けた恩を深く感謝し、その時の豆腐代及びお礼として今日また10両の金を与え、さらに七兵衛夫婦のため豆腐屋の店を新しく普請して引き渡した。徂徠の口利きで芝・増上寺への出入りが許され、またこの上総屋の豆腐を何もつけないで食べると出世するということで評判になったという。
おあとがよろしいようで。