夫と会話が話題がない
Q
先日10年ぶりに夫とうどん屋に入って2人で食事をする機会がありましたが、会話がなく話題がなく困りました。お互い相手の話を聞く側に回るほうが得意なのかもしれませんが、お互い相手が自分を楽しましてくれることを期待しているのかもしれません。意識して夫を楽しませようとするのはエネルギーが必要で、毎日毎日は続きません。どのように考えればいいでしょうか?
A
これもだから同じ間違いを犯していると思うんです。夫婦は楽しませ合って生きるもんではないんです。「楽しむ」とか「苦しむ」とかいうのも感情じゃないですか。いいかげん感情にこだわるのをやめなよ、アドラー心理学を長いことやってるんだから。大事なのは「いい気分とか悪い気分」とかじゃなくて、「すべきことをしているかどうか」なんです。夫婦がすべきこというのは、「遊ぶ、働く、話し合う」なんです。「遊ぶ、働く、話し合う」ということがきちんと行われていれば、時には気分良く、時には気分悪いでしょう。気分良く機嫌良く暮らすって、すごいわがままだと思いません?子どもには言うじゃない。「イヤなことでもやらなきゃいけないことはやりなよ。宿題イヤって?イヤって言ってすむもんじゃないでしょ」と人には言いながら、自分は気持のいいことだけして暮らしたいなんて、無茶苦茶わがままだと思いませんか?しなきゃいけないことはしなきゃいけないし、しなくていいことはしなくていいし、してはいけないことはしてはいけないです。たまたまうどん屋へ入ったときたまたま会話がなかったんじゃないんですよ。いつも会話ないんです。いつも会話ないのはどうしてかというと、「遊ぶ、働く、話し合う」がうまく動いてないからなんです。基礎工事が悪いのがたまたまそこでチラッと見えただけなんですよ。だからほんとに毎日毎日の心がけだと思う。夫婦というのは、「自然的な出来事」ではないんですね。結婚をしてsexをして子どもを作るところまでは自然的な出来事なんですが、そのあと婚姻生活を続けて仲良く暮らすのは「人間的な出来事」なんです。人間的な出来事というのは、努力をし工夫をしなきゃいけない出来事なんです。本能に任せておいてはできない出来事なんです。みんな本能に任せるから腐ってしまって、うまくいかないんです。本能的には、男は子どもができたら「他の女のほうがいい」と思い、女は「金さえくれれば亭主元気で留守がいい」でうちに帰ってくれなければいいと思うもんなんです、本来。それが動物の本能としての人間生活です。でもそれじゃなくて、僕たちは「一夫一婦制」というものを人間として選択しようとしているんです。選択する限りは努力がいるんです。例えば、雑草というのはほっといても生えるんですが、雑草じゃなくてきれいなお庭を作りたいの。きれいなお庭を作りたいというのは、人間的選択なんです。何でもいいから草が生えていればいいというのは、自然的選択なんです。きれいな庭には手間がかかります。水もやらなきゃいけないし、虫も取らなきゃいけないし、雑草も抜かなきゃいけないし、夏は夏、冬は冬でいろんなことをしなきゃいけない。そうすると、きれいな花が咲いたり、美しい結果になるわけ。夫婦もお庭作るのと一緒なんです。ずーーっと手入れがいるんですよ。一生手入れがいるんですよ。自然に任せ本能に任せると腐るんですよ。夫婦というのは、ある時点以後は自然的出来事ではなくて人間的出来事だから。庭作りが人間的出来事であるように、夫婦も人間的出来事なんです。おうちだって掃除しないと汚くなるでしょ。夫婦だって掃除しないと汚くなります。家は人間的な出来事で自然な出来事ではないから。人間が文化的に作り上げた暮らし方なんだから、手入れがいるんです。かつては、家族制度という中で、必然的に手入れせざるをえない仕掛けがあったんです。それが核家族化してそうじゃなくなったの。だから僕たちが自覚して努力して手入れしていくしかしょうがないんです。それをまあ頑張ってちょうだい。努力いるんだよって。(回答・野田俊作先生)