人権・差別
Q
人権・差別についてどうお考えですか?
A
人権侵害というのは、国家なり権力を持った人が、権力を持たない人の権利を侵すことを言います。
人権というのは、私に本来備わっている、まったく何もない状態で備わっている権利ではないのです。国家権力というものがあって、国家権力は絶えず国民の権利を侵害しようと思っている。これが西洋人の国家の捉え方です。西洋の国家はずっとそうだったから。今の民主主義の時代になって、国民は一部の国民の権利、例えばさつ人する権利を、国家に渡しました。放棄したのではなくて、委譲したんです。だから国家はさつ人の権利を持っている。例えば、戦争するときに行使する。死刑のときに国家が個人をころしている。ある限定された場合、法で定められた場合、国家は個人に認めていない権利を行使する。それは見張ってないとすぐにその限界を越えて行使する。それで、国家がその権利を越えないように法律で定める。
法というのは国家を規制するもの。公法というのは、「国は何々をしてはいけない」と定めるもの。憲法に基本的人権が保障されているというのは、国民に向かって言っているのでなく、国家に向かって「あなた方は国民の人権を尊重しないといけませんよ、侵害してはいけませんよ」と書いてある。
沖縄でアメリカ軍の兵隊が日本人女性を「れいぷ」したことがあります。日本の警察は被疑者のアメリカ兵を引き渡すように言ったら、米軍は拒否した。理由は、日本では送検されないと弁護士がつかないから。日本の刑事訴訟法ではそうなっている。アメリカの刑事訴訟法では、警察へ行った段階から、検察へ行く前に弁護士がつく。弁護士をつけないで警察に捕まるのは、アメリカ人の感覚では人権侵害です。日本の警察では弁護士がつかないから、警察へ被疑者を渡すわけにはいかない。そこで日本は、犯人と会わないままで送検しました。検察庁なら弁護士がつくからアメリカは被疑者を渡した。このときに日米人権思想に違いがある。人権思想というのは相対的なものです。日本では、被疑者が弁護士なしで警察へ行くのは人権侵害だと一般国民は思わない。アメリカでは思う。これは人権問題だった。
日本の新聞とか人々が、「被害者の人権はどうなるか」と言う。沖縄の女性の人権には何も問題は起こってない。国家は日本もアメリカも、沖縄の女性を拘束したり尋問したり留置したり刑罰を加えたりしない。アメリカ兵個人が沖縄女性を「れいぷ」したのは、人権侵害じゃない。権利の侵害ではある。だって、国家権力が個人に対してやったことではないから。これが人権の定義です。
人権侵害というのは、権力を持つ者が権力を持たない者の権利を侵害すること。しかも最初に、権利の委譲という概念があるので、権力を持つのは基本的には国家です。
マスコミがときどき個人の気に入らないことを書きます。佐渡の拉致家族に会ったりして、『週間キム曜日』が書いたりした。あれは人権侵害じゃない。マスコミは権力者じゃないから、一般にね。ただ、今、法律の世界の通説は、マスコミを権力者の一部だと認める方向に傾きつつある。でも、現在のところ権力者ではない。「個人的な権利侵害」ではあるけど「法的に人権侵害」ではない。ここをきっちり区別したい。
人権というのは相対的なもので、社会によって人権の定義・範囲が違う。日本人には当然人権侵害だと思えることも、中国人は思わない。共産党が思わないだけでなく民衆一般も思わないかもしれない。だから、他の文化の人権問題を本当は扱うことはできない。アメリカ人が、アフガニスタンや北朝鮮の人権問題を口を出すけど、それはアメリカの思想の押し売りでしょう。それらの国はそれらの国で、国家の権力、侵すべからざる国民の基本的人権を決める権限がある。民族自決として。
「国家対個人」でないと人権問題ではない。男女差別は人権問題でなく制度問題です。ある男性がある女性に対して差別的は発言をしたことは、人権問題ではない。差別問題ではあるけど。
国が女性の相続権・選挙権・就職上不利益なこととかを決めていると、これは人権問題です。ある企業、某住友系企業で、同期に入った女性と男性とでその後の処遇が全然違うということで訴訟になったが、訴えた女性は敗訴した。法律論的にはそうなる。私的契約だから。ただ、国家がその背後で国家公務員の企業で男女の差別を設けたとしたら、これは国家権力と個人の問題だから人権問題です。
学校で、人権・差別を意味拡張して教えているのはすごい問題ですね。言葉を正確に定義し正確に使うというのが、近代主義者(モダニスト=構造主義者)の私としては、構造が明確であることが話が通じる条件ですから、そこを言葉の定義を踏み越えて、言葉と言葉の構造を壊して話をして、ある種の団体とかある種の人たちの利益になるほうに誘導するのは非科学的な態度だと思います。(回答・野田俊作先生)