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スレッドNo.483

大きな物語、小さな物語

Q 
 「大きな物語が崩壊した」と言いますが、物語には大きな物語と小さな物語があるのでしょうか?

A
 まあ、そうです。グランドセオリーね。この世界をたった1つの原理で説明し尽くせるような物語です。
 例えば、「人類の進歩」、「科学の勝利」、「自由と人権」とか。これらの物語には例外がない。「あの人たちだけは自由と人権の例外だ」と言うと、「自由と人権」という物語が崩壊する。「北朝鮮だけ、不自由で人権侵害して暮らしていてください」と言うと、何か気持ちが悪いでしょう。「なんであそこだけ通用しないのか」と思う。「人類は進歩しますけど、チベットだけあのままよ」と言うと気持ちが悪い。つまり、例外のない物語です。
 ところが、例外のない唯一の物語が、自然科学まで含めてこの世界を全部説明できると思えなくなっている。私は自然科学者の端のほうで働いている。自分のアイデンティティーは社会科学でも人文科学でもなく、自然科学の世界の人間だと思っているが、自然科学が何もかも全部を説明できると思えない。利根川先生は、「分子生物学がもうちょっと進歩すると、人の心を分子生物学で説明できる」と言ったけど、私はできないと思う。人の心はある部分はできて、ある部分はできない。
 万葉集の歌に、「信濃なる筑摩の川のさざれ石も君し踏みせば玉と拾わん」というのがあります。河原の小石も愛しいあなたがお踏みになったのだから宝石と思って拾いましょうという意味です。愛しい恋人が使ったハンカチを欲しがる人がいる。ハンカチを抱きしめて寝る人がいる。あれ、ただの布よ。こんなのをフェティシズムと言います。女性の汚れた下着を欲しがる人がいる。私は、あれはただの汚れた布だと思う。でもそう思わない人もいる。分子生物学のレベルの問題ではない。心理学の側の、文学側の問題です。自然科学で説明できない現象はたくさんある。希望とか夢とか記憶とか、そんなものは自然科学で説明できない。それはそれでOKです。
 ということは、「私の物語」は崩壊している。利根川先生はまだ大きな物語の世界で暮らしていて、いつか分子生物学が人間の生命現象を、心まで説明できると信じている。その物語はそんなに大きくないよ。部分的な説明しかできないと思っている。でも説明はできるけどね。

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