柔らかい決定論
Q
最初から「自己」があるわけじゃなく、対話の中で行動を決めていくということだったと思うのですが、話し合いの中で行動を選んでいくことを「柔らかい決定論」と言うのでしょうか?
A
あのね、「柔らかい決定論」というのはライフスタイルを使ったり使わなかったりすることなんですよ。さっきの「対人関係の輪っか」の中での話は、ずーっとライフスタイルを使っているんですよ。決心して今ライフスタイルと違うことをしようなんて思ってないんです。しかもある夫婦は不幸になり、ある夫婦は幸福になるんです。そこで僕たちが助言して、いつも「何してんのよ、あなた!」と言うのをやめて、「もう少しお話してもらえませんか?」と言うじゃない。で、「もうちょっとお話してくれる?」と言ったときに柔らかい決定論が使われているんです。その瞬間ね。で、柔らかい決定論を使わなくても、個人のあり方というのが絶えず環境との相互作用の中で変わっていく。しかもその個人をその個人は自分だと思う。例えば、イライラしている人はずっとイライラしているんです。家でもイライラしているし職場でもイライラしている。それが自分だと思っている。私ってイライラする人間だと思っている。あんまりイライラするので、旅に出ようと思います。旅に出て三重県の沖、船に乗って三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台になった神島という島がありまして、民宿へ泊まって夕方何もすることがないので浜辺へ出ていくと、おじいちゃんおばあちゃんが集まって夕日を見ながら、みんなでお話しているんです。神島のおじいちゃんおばあちゃんはよくしゃべる。「あんたどこから来たの?まあお入りよ」と言われて、お菓子食べながら何やかんやと話をしていると心がスッと穏やかになって、いつもの家庭といつもの職場の自分ってあれウソなんだと、自分はほんとはこんなに穏やかで心豊かな人間なんだ。いいなあと、3日間くらいここで暮らして退屈になって、休みが終わって職場へ帰りまして、奥さんの顔を見てしばらく心豊かなんですけど、「神島でこんなことあってね」と言うと、「あんたそんなことよりうちの子どもがちっとも勉強しないのよ」と言われて、だんだんイライラしてきて、職場へ行ってもしばらく心豊かだったのに、課長が「ここんとこ業績が上がっていない」とか何とか言い、だんだんイライラしてきて、神島のときの俺ってウソなんだと、イライラが本当なんだとこう思いますが、どっちが本当なんでしょう。どっちも本当なんです。ライフスタイルの別の側面が出てきている。ペルソナと言うんですけど、人間ってたくさんの顔を持っているんです。ライフスタイルは1個しかないんですけど、コミュニケーションの中で違う私が作られるわけ。作られるけどライフスタイルは変わってないんです。これだけだと柔らかい決定論はないんです。固く決定されているから。ここから出られるのは柔らかい決定論があるから出られるんです。