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スレッドNo.509

横の関係(1)

Q
 小学校の事務職員です。縦の関係を脱却するというのは、子どもの横であり担任の横でありもしくは教員・校長の横である位置を探るということなのでしょうか?子どもからも担任からも相手に対する不満を聞かせてもらうことが多く、どう対応したらいいものか試行錯誤しています。

A
 なんやようわからん質問や。あのー、今日質問少ないからたくさんしゃべろう。
 アドラー心理学の用語がたくさんあって、例えば劣等感というと、他人と自分を比較して自分が劣っていることだと思うんです。でも、アドラー心理学では劣等感をその意味ではまったく使わない。アドラー心理学では、自分の理想と比較して自分の現実が劣っていることを劣等感と言う。これが定義です。自分の理想というのは、人間は目標追求をしていて、生命があるということ、生命活動があるということは目標追求をしているということですから、人間には必ず劣等感があるんです。劣等感がない状態というのは、死んだらなくなるんですけど、死なない限り劣等感があるんです。なぜかというと、劣等感というのはまったく内的なものだから。自分の理想と自分の現実との比較だから、そういうふうに定義するから、すべての人に劣等感があると言うとすんなり来るんです。劣等感をなくするのは不可能です。「しね」と言うのと一緒ですから。
 横の関係とか縦の関係とかもアドラー心理学上の定義があります。横の関係というのは、協力して問題を解決するような関係です。縦の関係と言うのは、誰が上で誰が下かを決めようとするような関係です。誰が上で誰が下か決めるのではなくて決まっていたら縦の関係ではない。だから、校長先生がいてヒラ教員がいても縦の関係ではない。総理大臣がいて一般住民がいても縦の関係ではない。誰が総理大臣かをみんなで争っていたら縦の関係です。普通僕たちは社会的な身分制度について争いをしないです。戦国時代の下剋上じゃないから。どんなことで争いをするかというと、誰が成績が良くて誰が劣っているかとか、誰が理解が早くて誰が理解が遅いかとか、誰が駆けっこが上手で誰が駆けっこが下手だとか、誰が正しい考え方をして誰が間違った考え方をしているかとか、誰が美人で誰がブスかとか、誰がカッコいい男の子で誰がカッコよくない男の子かとか、誰が歌が上手で誰が下手だとか、誰の絵が良く描けているかとかで上と下の争いをしているわけです。
 現在僕たちの縦関係というのは、ほとんど学校と関係があります。学校で成績とか評価とかいうことと関係しながら争わせるとか、あるいは正不正、誰が正しくて誰が間違っているかを、学校の先生は決めたがるんです。例えば、牛乳瓶かなんか出してあったら、「誰が出したの?」と聞くんです。「あの子が出したの」「じゃあ呼んでらっしゃい」「あんた自分で出したらちゃんと片づけなさい」「僕出したんと違うもん」「じゃあいったい誰が出したの?」「あいつが出した、こいつが出した」と言い争いをさせている。あれ何してんの?その間、牛乳瓶そこにあるんよ。それよか誰が片づけるか決めたほうが良くない?「誰が出したの?」と聞くより、「誰が片づけてくれますか?」と聞くのよくありませんか。誰が出したかはよろし。「片づけてくれる人はいますか?」と聞けばいいのに、誰が出したかを決めたいんです。なぜ決めたいかというと、誰が悪人かを決めたいから。誰が善で誰が悪かを決めたい。あるいは学校では滅多にやらないけど、誰が美しくて誰が醜いか、美人コンテストをやったりする。善悪真偽美醜、そうであるかとかそうでないかとかをみんなで争って決めようとする関係を縦の関係と言います。
 学校が激しい縦の関係でやってまいりました。昔はのんびりした時代で、そんなことをあまり気にしなくても学校にいられた。お勉強しなくても別にどうってことなかったんですが、だんだんだんだん競争が悪化してきて、どうしてもそういう縦関係の中へ子どもが入らざるをえない状況を作ってしまいました。まあ学校もそうですが塾もあって、塾との相互作用で。それが今度は社会へはみ出していったんです。学校の縦関係が社会へ漏れ出していって、成績評価を社員さんになってもやるわけ。営業成績を評価して、「いくらいくら売れました」「あなたは目標に到達していません」と言われる。そうやって勤務評価されて序列をつけられて、能力給で給与格差がついて、あまりにも能力がないと思われた人は解雇されて、そうでもない人はいわゆる窓際で網走かどこかへ送られて、本社へ残って最後まで生きようと思ったら、学校的評価として上のほうにいないといけないという社会を作ってしまった。これが縦社会です。
 江戸時代の封建社会は縦社会じゃないんです。士農工商の身分はあったけど、あそこでは争いがなかったから。お百姓は将軍になろうとしてもできなかったもの。誰が将軍か誰が殿様か初めから決まっていたもの。あれは縦社会でない。今が縦社会です。上下を争う社会。それが今の学校なんです。それを横社会に変えたいんです。横社会というのは例えば軍隊は横社会なんです。軍隊は将軍がいて上官がいて部下がいますが、内側で誰が上官で誰が部下か争えないもの。みんなで敵をやっつけるということに協力しますから、あれは横社会です。横社会というのは、みんなが役割分担をして協力して問題を共同で解決する社会です。
 ここで2つ重要なアイディアがあって、1つは共同の問題だということ。「PASSAGE」を学んだ人の1つの悪い癖は、何でもかんでも課題の分離をしまくって、「あれは私の課題ではありません。これも私の課題ではありません」と言って、完全の自分の課題ゼロという世界へ入って、完全に無責任に生きて、「これでアドラー心理学できました」と言っている。違うので、アドラー心理学はいろんなことを共同の課題にして暮らしたい。ただ、向こうは手伝ってほしくないことを、お節介して介入したくない。子どもは勉強についてあまり大して親に構ってほしくない。勉強は自分でやりたいと思っているのに、なぜ親が「そんなことダメよ。あなたの勉強は私の課題だから私が手伝う」と言うかというと、それは親の課題があるから。親は勉強のよくできる子どもを持ちたいんです。なんでかというと、例えば学校へ行って先生に怒られなくてすむから、親が。例えば友だちのお母さんに対して鼻が高いから。あるいは公立高校へ行ってくれると体裁もいいけど、経済的にもちょっと得かなと思うから。成績が良いと良い会社に勤めてくれて老後の安心も増えるから。ということは、子どものためと言うけど、よくよく考えると全部自分の利益なんです。自分の利益のために子どもを勉強させたい。子どもを勉強させないでいると、ちゃんと親をやっているのかしらと、私は親としてすべきことをしてないという感じがする。口うるさく言っていると、親としてすべきことはしている。これだけ口を酸っぱくしてすべきことをしているのに勉強しないのは、あの子が悪い。親としてすべきことをしないで勉強しないと、私が悪い人。私が悪い人でなくなるためには、とにかく努力しておくと子どもが悪い人になるから、これで良かったといって、隠れた縦関係がある。誰が良い人で誰が悪い人かを決めるという。だからいっぺんそこを整理してください。
 いったい何が誰の課題かを整理した上で、本当の意味で共同の課題を作りたい。学校でお勉強するというのはクラス共同の課題です。数学なら例えば二次方程式をある一定期間に全員がマスターできるように、「みんなが一丸となって頑張ろうね」というのが本来の姿なんです。競争して「僕はできたぞ。お前なんかできないだろう。バカバカ」と言うのが本来の姿ではない。二次方程式はどっちでもいいと思うんですけど、例えば国語ね。漢字が「新聞に出てくる程度の漢字をクラスのみんなが小学校1年生から中学校を出るまでに読めるようになろうね」と、助け合って暮らすのが本来の学校の姿だと思う。わからない子にわかる子が手助けをして、その代わり、手助けされた子は別のことでわかる子に別の形で手助けをして、みんなが協力して小学校から中学校出るまで暮らせれば、それが一番良い姿でしょう。それが横の関係のクラスです。1つは学業であれ道徳的な生活であれ、あるいは体育であれ、それらは共同の課題なんだと。全員が助け合ってみんなが伸びていくということを、先生が援助しないといけない。これが1つ。(つづく)

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