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スレッドNo.510

横の関係(2)

 もう1つは、その中で1人1人の個性は徹底的に尊重しないといけない。全員が同じことをしたら差別です。不平等です。国語をうんとたくさん勉強したい人は国語をうんとたくさん勉強すればいい。その分だけ他のことはちょっと手を抜きます。それはそれでよろしいやろ。社会的に必要なだけの、その人間がこの世で生きていく上で必要な教養というものがあるだろうと思う。僕は新聞を読めなきゃいけないとはあまり思わない。うち、新聞取ってないので、新聞というものが必修科目だとは思わない。が、テレビのニュースがわかる程度の日本語力があったほうがいい。公用文を会社に勤めたら書かないといけない。「新緑の候となりましたが、皆様ますますお元気のこととお慶び申し上げます…」。それくらいのものを書いたり読んだり理解できる国語力がいるんではないかしら。それくらいできれば、別に芥川龍之介を鑑賞できなくていいです。今の子どもはもはや芥川龍之介を読めません。もちろん夏目漱石も森鴎外も全然一言も歯が立ちません。構わないです。一生、夏目漱石も森鴎外も読まないでも人間やっていけます。夏目漱石も森鴎外も文豪で素敵なことを書きましたが、彼らが持っている問題意識は明治末期~大正初期の問題意識です。あの問題意識を今の子どもたちは持ってないし共有してないですから、わざわざ読まないといけないことはないです。僕、開高健が好きで、開高健の文章を今の子どもたちは絶対読めないです。相当な美文ですからね。でも読めなくていいです。彼はベトナム戦争という時期を僕らの先輩たちと一緒に生きて、ベトナム戦争の中へ凄く奇妙な形で食い込んだ朝日新聞の特派員でしたから、日本人としての立場で物事を書いていました。それは僕たちには問題意識の共有があって読めたけど、今の子どもたちはベトナム戦争も何もわからないし、彼の抱えたさまざまな問題を抱えてないから読まなくていいです。でも現代の小説家たちが現代の問題について書く文章はたぶん読めたほうがいいです。そういうミニマムなことは、文化の伝承として子どもたちに与えてあげたいけど、それ以上のたくさん勉強してもらわなくてもいいと思う。その分、他のことへ回したほうがいいと思いませんか。僕、理科系人間ですから高校3年生のときかに──、ここの角度がrでこの距離がθで、ここの円弧の長さがrθなんです。それじゃあ円の面積はどうなるかというと、ここを△で近似しますと、ここの面積が1/2r×rθですから、1/2r二乗θですね。その△をずーっと一周積み重ねて積分すればいい。0から2πまでrθを積分すれば、2πr二乗ですね。半径の二乗×円周率ですね。──というのを習ったときに、「なんでこれを僕に小学校5,6年生のときに教えてくれへんかったんやろ」って。それまで中学校で四苦八苦しためんどくさい問題たちが全然問題なく全部解けるんです。インチキよ、そんなん。と、理系人間は思う。理系の子たちは、角座標を教えてもらったり積分や微分を教えたもらったとききに、それまで小学校では円の面積は「半径の二乗×円周率・3,14」というのが何の意味もなく子どもたちに教えられたのが凄い苦痛だったんです。「なんでそんなんあんた勝手に言うねん。ほんまに計ったんか」と、「円周率3,14てどうやって計ったんや」と先生に質問したら、先生は「覚えなさい」と言うんです。ところであれどうやった計るか知ってますか?円周率。いろいろあるんですけどね。普通多くの人がやるのは、半径rの円に内接する多角形を作って、それから外接する多角形を作って、これ三角ですからこの長さは簡単に計算できます。計算しておいて多角形の角の数をどんどん増やしていく。で、外側から内側を引いて、辛抱できなくなるくらいに小さくなったところを円周率にします。七万角形とか十六万角形とかいうのを作って、その外接と内接の差がいくらになっているから円周率はこれからこれの間だとわかる。これが一番正確な方法。遊びとしてはもっと面白い方法がある。円を描いてそれの外接四角形を描きます。ここへランダムに点点を打つんです。外へ落ちた点と内へ落ちた点の数を数える。20万個くらい点を打って3,1なんです。無茶苦茶能率が悪い。今のコンピューターは性能が良くなりましたから、3日か4日働かせ続ければ結構良い線が出るのでは?そんなことをして計るしかしょうがないもんで、それを3と言おうが3,14と言おうが、教師には何の根拠もないんだから、そんなんただπと言っておけばいい。数字知らんけど。弧があって弧を一周くるっと回ったら、πrになるし、2πrになるし、そこの面積を測ったらπr二乗になるじゃないですか。これでよろしいやろと僕らは思います、理系は。でも文系の人は思わない。「そんなん許せん」と。「それで何がわかったん?」「それは頭の構造が違うんやからしゃあない」と理系人間が言うのは、とにかくこういうふうにものを考えるように初めからできているわけで、人類の何パーセントとかがなるべくサイン・コサイン・タンジェントとか指数とかで世界が見えるほうがいいと思っているんですよ。世界は全部、微分と積分だと思っているんですよ。高校3年生になってやっと微積を習うんです。大学へ入ってやっと本格的に解析物理といって、こういう微分積分を使って世界を見る方法を教えてくれるんですけど、そこまで欺され続けている。欺してないで小学校6年生くらいから教えてくれると、ずっと人生楽だったんですよ。だからクラスの中にこんな子用のちょっとした「村」を作って、「島」を作って、これをやってくれれば、僕は凄く楽に中学高校を過ごせたんです。でも今これダメです。例えば大学のセンター試験である問題を解くときに、高校で教えていない解法で解いたらダメなんです。でも高校で教えている解法は大体全部インチキなんです。大学の解法から見ると。そういう試験の仕方って何か意味があるんでしょうか?なんでそんなことをするかというと、全員に同じことをさせるため。その子たちの個性を発揮させないために、1人1人の違いを伸ばさないために、みんなが同じように動けるようになるためでしょう。そのことがみんなに凄い負担をかけている。英語を勉強するのが全然苦痛じゃない子がいる。英語だけだと暇でしょうがなくて、ドイツ語もやりますフランス語もやりますラテン語もやりますギリシャ語もやりますという子もいます。ところが高校でギリシャ語の本を読んでいると先生が怒る。「そんなんせんと英語をしなさい」「英語は僕わかります」「英語がわかるからといってギリシャ語を読んでいいといものではない」とわけのわからん理屈を高校の先生はこねる。この子にギリシャ語を読ましてやれよ。子ども1人1人良いほうにも悪いほうにも皆違います。それを学校の科目だけじゃなくて、たくさんのことが起こると思います。僕昔、合唱団に入ってまして、大学出てから宗教音楽だけを歌う合唱団に入っていました。バッハなんか歌っていました。当時フォークソング全盛時代で、合唱団の合宿かなんかでワーッと歌って、休憩時間にフォークソングを歌っていたら、指揮者の恐い先生が「お前らそんな歌になるとなんでそんなええ声出すねん」と怒るんです。「それは先生、違うもん」て。学校で教えていることが得意じゃないからといって、学校で教えないことが得意な子がいっぱいいるんですよ。カラオケ連れて行ったら、無茶苦茶たくさん歌える子がいるんですよ。学校の音楽は全然ダメでですよ。カラオケでいっぱい歌えて学校の音楽アカンて、どっちが正しくてどっちが間違ってる?それは、学校の音楽が間違ってる、この子たちにとってはね。僕は音楽の授業廃止論者ですから、音楽を学校で教えることはない。音楽大学へ行く子たちは、学校で習ったことは音楽大学ではまったく役に立たないです。ほんとにもっと小さいころからちゃんとやってないと。音楽大学行かない子は、学校で習った音楽は全然役に立たないです。なぜならモデラートとか書いた楽譜を読まないから。学校で音楽を教えることはない。音楽がない国はいっぱいある。学校の授業に音楽が存在しない国はあります。日本で伝統的に学校で音楽が存在したのには意味があります。かつての時代に。文部省唱歌というものがあって、それを使って国民に西洋音楽というものを教えたかった。明治政府は、三味線を弾いてやる東洋の音楽からあるいは民謡から西洋音楽に脱却したかった。外国に対する見栄もありますね。日本文化で外国人から一番評判が悪かったのが音楽です。絵とか建築とかには西洋人は驚嘆しまして、浮世絵とか金閣寺に西洋人は凄いと言ったけど、音楽だけは西洋人は辛抱できなかった。なんであんな変なものがついているの?そういえばそうね。あれは西洋音楽の意味で聞くと変なもんです。それで明治の高官たちに西洋人が、「あの音楽だけはやめなさい」とさかんに進言したので、まあそれもそうかいねと思って、西洋音楽を小学校から教えようと思いました。それが1つで、もう1つは国民共通の音楽を作りたかった。明治政府にとっては、日本国家の共通の○○、国旗から始まって日本国民だぞという自覚を持たせるために共通の物語が山ほど要った。それは国語の教科書だってそうだったし、修身の教科書だってそうだったし、歴史の教科書だってそうだったし音楽だってそうなんで、世界中どこにいても同じ歌を知っているということが無茶苦茶大事だった。それは音楽教育の凄い大きな目的です。アメリカ人はこの種の教育を徹底的に受けていますから、だから世界中どこでアメリカ人と会っても、アメリカ人が歌う歌はアメリカの学校で習ったアメリカの文部省唱歌です。それがアメリカ人の統合の象徴なんです。そういう国家主義的な意味で音楽をしなければならない時代がありました。今、学校で教えている歌が日本人統合の象徴として動けるかというと、動けないと思う。子どもたちは僕たちが習った歌を歌いたくないもの。音楽の概念が変わったもの。カラオケあるし、テレビあるし、学校で教えなくてもみんながその時代の歌を歌うんです。僕なんか子どもたちとカラオケに行って歌を歌えない。「お父さん、何?その歌ダサい」と言われるから、「いいよ、僕らだけで行くから」とこう言うわけです。それでいいじゃない。そうなると、モデラートや八分音符だので責め立てて、子どもたちを音楽嫌いにする必要はないわけです。(つづく)

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