フロイト心理学がはやるのは?
Q
フロイトの考え方は変だなと思いましたが、いまだに「フロイト派」と呼ばれる人たちがたくさんいるのはどうしてでしょうか?
A
面白い質問ですね。変じゃない。アドラーのほうがずっと変なんですよ。フロイトの考え方というのは、世間が一般通念として持っている常識と極めて近いんです。例えば、なんか自分の本能的な欲求と良心とか道徳観念とかと対立するというのは、世間でそう思っている人が多いじゃないですか。それから、小さいときの親の子育てでこんな性格になってしまったというのも、多くの人がそう思っているじゃないですか。だから、フロイトの考えというのは、世間のごく普通の人が信じていることをちょっと学問的に言い直したものです。ですから、大学なんかでそれを習うと、「ああ、もっともだな」と思うんです。皆さん方、本屋さんへ行って、どっかの新書本で小此木啓吾先生とか土井健郎先生とかが書かれた本を買ってきて読んでごらんなさい。「ほんとにそうだ」と思うんですよ。だからはやるんです。で、アドラーの考え方というのは常識的じゃないんです。例えば、過去が私の現在を決定していないとか、本能と社会とかは矛盾しないとか、そういう考え方というのは、普通はそうは考えない。神戸で地震があって、「心の傷が残ってPTSDで後遺症に悩まされる」と言うと、アドラー派の人たちは、「あ、それは目的がある」と言うんです。普通そんなことを考えないです。だから、アドラー心理学が100年もしながら少数派なのは、とても変わった考え方だからと思う。それが1つ。それから、フロイトの考え方というのは、一方ではsexを前面に押し出しているので奇妙なんですけど、一方では極めて常識的なので、それを混合しているわけです。子どもが性欲を持って母親とsexをしたがるだとか、凄い奇妙な考え方なんだけど、そういうものと子ども時代に性格が決まるという常識的な考え方とがミックスしてあって、その両方が、社会の精神学者とか心理学者とかじゃない人たちに広がったわけです。一方で常識的だから広がりやすいし、一方で文学とかをやっている人たちは、そういうsexに関する奇妙な幻想的な理論に大変興味が、特に20世紀の前半期にありまして、それで気がついたときには、医者とか心理学者とかじゃない人たちがフロイトの心理学をしっかりお勉強なさっていて、それに影響されながら、いろんな文学作品とか映画とかそんなものができてきちゃったでしょう。アメリカでは1つの社会的な常識になってしまっていて、その中で新しい世代の人たちが本を書いたりするのは、やっぱり常識だからフロイトから書き始めるじゃないですか。そういう感じだと思います。これは問題だと思うんですけどね。フロイトの弟子系統じゃない人たちはみんな、これは社会的な問題だと思っているんです。小さいときに人生が決定されるだとかいう考え方は、結局子どもが自分のやった行為の責任を親になすりつけることになるでしょう。それと同じように、例えば裁判なんかでも、アメリカはやたら無罪が多いんですよ。殺人なんかしても。それは、フロイト派の理論を持ち出して、この人には心の傷があって、その心の傷が今さつ人をさせたから、この人自身には責任能力がないんだという言い方で弁護士が論陣を張るんです。神戸で首切った子なんか、アメリカだと確実に無罪ですわ。「心の傷があった」と絶対、弁護士が言うから。日本は、裁判のときの精神鑑定では、フロイト式の精神分析的な鑑定書は普通、受けつけてもらえない。裁判官がイヤがるんです。もっと純粋に精神医学的な「何とか病」というやつでないと受けつけてもらえないか、日本では鑑定の結果無罪というのはあまりない。