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スレッドNo.546

中1長男不登校の援助は?

Q
1月から3月にかけて、野田先生のPASSAGEに参加させていただきたいた者です。とてもとても学ぶことが多くてよかったです。(野田→ありがとうございます)。子どもを信頼することができるようになりました。長男は中学1年生になり、教科内容により行ったりさぼったりしています。これも自立というのでしょうか?私の時代の私の考えがいけないのかもしれませんが、そんなに堂々とさぼるのが信じられません。長男はとても元気です。小学校4年生の長女は新しい先生になって、先生が気に入り2日間学校に行きましたが、その後、学校は面白くないと言って休んでいます。家ではミシンをしたり料理をしたりしています。先日、市の不登校生のための学校を見学に行き、気に入って行っています。シジミ取りや料理など、工夫して過ごさせてもらっています。最終的には元の学校に戻るように援助していきたいのですが、どのように関わっていけばよいでしょうか?

A
 「子どもを信頼する」っていうの面白いね。僕、子どもを信頼するいうのをやめたんですよ。なんでやめたかというと、「尊敬する」とか「信頼する」とかいうのをアドラー心理学の言葉としてドライカースなんかが使うんですけど、世間でも使うでしょう。世間で使う意味とアドラー心理学で使う意味と違うんです、おんなじ言葉ですけど。で、ややこしいから、子どもを「尊敬する」「信頼する」というとたいてい間違いなんですけどねえ。僕が一番思ったのは、後藤会長がいた時代に、後藤さんの話をとにかく聞きたいから、「総会へ出てきて基調講演をしてもらって、その上で議論しよう」と言ったり、関東地方会というのがあって、そこに坂本洲子さんに来てもらって、考え方がわれわれと全然違うから、「いっぺん公開の場でちゃんと議論して会員さんに聞いてもらって、それで判断しよう」と言ったんです。そうしたらある人たちが、「野田さんは後藤さんや坂本さんを尊敬もしてないし信頼もしてない」と言うんですよ。そんなことない。尊敬し信頼しているから、引っ張り出して決着をつけようと言っているんじゃないですか。尊敬してなくて信頼してなかったら無視して放っておきますけど、お侍と一緒なんですね、「あんたは敵だ。だからちゃんと勝負をしよう」というのは、相手を尊敬し信頼しているから言うことで、アドラー心理学も自己決断・自己責任ですから、「あんたが言った以上あんたに責任があるから最後まで取ってください」と、当然それはできるだろうというのが尊敬し信頼していることなんですけど、何か日本って「なあなあ」で傷を舐め合う国でしょ、ここ。日本人の体質が一番濃厚に出ているのが役所で、役所の中でも一番濃厚に出ているのが学校だと思うんですけど、みんなでミスを隠し合いかばい合って、直接的に議論しないで、そーっと暮らしていくというのが日本の世界で、それが日本人の信頼だったりするわけ。信頼関係があるというのは、要するに相手の問題点を暴かないでおくことを信頼関係があることだと言ったりします。それはアドラー心理学が使っている言葉と違うんです。それは相手を軽蔑し不信だからそんなことができるので、相手の能力を信頼していたら、相手の能力で問題解決できるはずだと思う。親子関係でもそうです。子どもを尊敬し信頼していたら、いらんお節介をしなくなるはずなんです。子どもは自分で判断してちゃんと乗り越えるだろうと思うから。そのへんをわからない人がいるので、世間で普通に使う言葉はなるべく使わないでおこう、危ないからと思って、「子どもを信頼する」というのをやめることにしました。けれど、子どもを信頼する「やり方」を教えることにしました。PASSAGEなんか読んで、最初から最後まで探してもらうといいんですが、「信頼」という単語は出てこないんです。出てこないけど、やり方は教えていますから、信頼はできるんです。「子どもを信頼することができるようになりました」と言われると嬉しいです。
 登校拒否ねえ、あれもねえ、このごろ思うんですけど、だんだん変質してきてまして、昔の登校拒否児は悩んでいたんです。今の登校拒否児は、登校拒否がごく当たり前の現象にもなったし、学校も家も、いわゆる「登校刺激をしない」という形が徹底してきたので、子どもも「そんなもんかいね」と言って悩まなくなっている、社会的な風潮としてね。新聞だってかつては「悩める登校拒否児」に焦点を当てて見ていたけど、今は登校拒否の側が悩まないから記事にならないから、「悩める教師の側」に焦点を当てている。新聞は誰か悩んでもらわないと記事にならないという特徴があるから、そんなことをしています。それは社会的な風潮として不思議ではないと1つは思う。それから、学校というものの意味が失われてきていると思うんです。かつての時代、僕らが生徒だった時代には、人生と学校とがもうちょっと結びついていまして、どうして結びついていたかというと、だいたい鉄腕アトムのおかげなんです。何か科学とかいうものがあって、それで明るい未来というものがあって、それでオリンピックもあってテレビもあって、高速道路もできて、そこへ自分が参加していくんだよという形で科学者になったりお医者さんになったり、ビジネスマンになったりする形で、この社会の進歩に参加するんだよといく感覚を、中学生だって小学生だって持ってたんです。それはだから鉄腕アトムのおかげなんです。もっと上、父親の世代だったら、アジアの何とかで、日本はアジアのお兄ちゃんで、アジアは日本の弟分で、それで頑張っていこうと。鬼畜米英からアジアを解放しようというのを、子どもは信じたわけです。大人は信じたかどうか知らないけど。もっと昔だと、富国強兵とかいうのを信じて、それを全部学校が自分の将来、国家なり社会なりというものの中で役に立つ存在として生きていくためには、学校へ行かないとダメなんだよという感じがあって、学校は確かにそのように働いていたんです。でも、ある時代に日本は峠を越えたかして、何のために大人になるかわからなくなったんです。子どももわからないけど大人もわからなくなりました。次の時代が何なのか、そういう政治的な野望もなくなっているし、それから科学だとかいうような夢もなくなっているし、科学についてもやっぱり混乱がある。高度成長でいろいろやった結果が環境破壊につながっていて、住み心地の良い社会になったかというと、そうでもないような気がしませんか。テレビのコマーシャルで、図書館へ行って、「良い本をお選びですねえ。君たちも本なんか読むのかね。コンピューターばっかり触っているかと思った」と言ったら、「もしコンピューターがなかったら」っておばあちゃんが出てきて、「良い本をお読みですねえ。でも6か月くらいかかりますわ」っていうのがあるんですが、僕、6か月くらいかかってもいいと思うんです、ほんとは。今の便利さというものが、ほんとにみんなにとって便利なのかどうなのかわからないよ。インターネットやEメールは便利なように見えるけど、なんかただ仕事が増えただけのように思うし、携帯電話がなかったら逃げられたのに、なんか24時間監視されているような気もするし、新幹線も2時間半で東京-大阪行き来するから、このごろ日帰りで出張になったりして東京もとてもつらいし、ついでに一杯飲んでくるということも不可能になりまして、何か結局その中で人間の労働時間や労働量は増えているんですよ、なんと。ここ100年くらいの1人あたりの労働時間を調べてみると、だんだん増えてるんですね。楽になってないんですよ。労働の量も、ボーッとしていられなくなってずっと働いていなきゃいけないことになって、あんまり楽になってない。それは大人たちも思ってます。臓器移植なんかもそう手放しで喜べないとこともありますし、ちょっとヤバいかなと思うでしょう。未来が不確定というか見えないじゃない。そこで学校はいったい何なのか。何のために算数や国語や理科や社会を教えているのかが、教師たちにもたぶんあまりよくわからない。教師たちを問い詰めたらきっと答えられないと思う。僕らのころの教師は、「それは君たちが社会の役に立つためさ」とシャアシャアと言ったんですよ。僕らの時代の教師というのは、だいたい恐ろしい存在で、一種類はだいたい師範学校を出た人たちです。旧制師範学校というのは月謝がいらない学校だったんです。だからお金払えない家庭の子でお勉強したい子は教師になるか士官学校へ行くしかなかったんです。教師は士官学校行かないで師範学校に行った人たちで、その人たちはお勉強することとかに全然何も疑問を抱いていない。「君たちが社会の中でちゃんと中産階級の暮らしができるためには勉強しておかないといけない。自分たちも勉強したから教師できてるけど、しなかったら貧農の息子だ」と言ったでしょう。もう1つは、海軍兵学校あたりへ行っていて、江田島の沖で泳いでいたら広島の原爆が見えたという世代の人で、兵学校がなくなって次どうしようと言って、軍隊でもって国を救うことができなかったから、やっぱり教育だと、こっちも信念に燃えた。信念に燃えた師範学校と信念に燃えた兵学校に教育されているから、あの人たちは「なんで学校へ来ないといかんか」と言うと、わりときっちり答えたと思う。でも今の先生たちは、「まあ、来たらいいんじゃないの」くらいしか答えられないので、それで子どもたちも学校の意味を見失いつつある。そこを思い出さない限り、登校拒否の問題は解決していかないと思う。「なんで人間は学校へ行かないといけないのか?」「中学出て働いたらどうしていかんのか?」「働き口としてもっと魅力的な職場はないのか?」。これも機械と主婦が奪ってしまった。中卒の就職先というのは、1つは自動化されて機械がやってるんです。例えば、典型的なものは印刷。かつての印刷は植字をしたり、活字を拾ったり、中卒の人がやる仕事がたくさんあったんですけど、今は全部コンピューターですから、そんなんなくなり、もう1つは主婦のパートという恐ろしいものがあって、よー働くんですよね、主婦のパートは。パートだからいつでもクビにできるし、身分保障いらないんです、保険など。田舎から中卒の集団就職を受け入れたら、働かないかもしれないし、わけのわからんことをするし、身分保障いるしイヤですから中卒やめて主婦になりました。働く場所がなくなったりしているということもある。僕らのころは、中学を出て働く子いましたし、高校出た子はざらにいましたから、そんなことなくなったでしょう。そんな中で、国だとか地域だとかの方針として、教育とは何なのか、何のために教育するのか、考えてもらわないといけないけど、そんな言ってたらうちの子はどうなるのよ。それは間に合わないよ。だから自分とこの子どもについてちょっと考えないといけない。登校刺激をしないという説は、私は反対なんです。登校刺激をしないということを言っているのは、カウンセラーたちなんです、基本的にね。カウンセラーはなんでああいうアイディアにたどり着いたかというと、2つのことがあるんです。1つは、臨床で実際やって来る登校拒否児を見ていると、登校刺激いっぱいされて「学校行かなかったら大変よ」と言われた子がいっぱい来るんです。だから登校刺激しないでおこうという結論に達するわけです。「あれやってもあかんなあ」て。でも、考えてみたら、登校刺激されて学校へ行った子もいっぱいいるはずなんです、世の中には。「学校行きなさいよ」と言ったら行った、あるいは先生が呼びに行ったら行ったということも、特に学校の先生からよく聞きます。「あんなカウンセリングなんか受けんでも家へ行って、『やっぱり学校行っとかんと困るよ。ひと月もふた月も休んだら来にくくなるから、今のうちにおいでよ』と言ったら、子どもも『そうか』と言って行った」という話もいっぱい聞くんです。それはそうだろうと思う。だから登校刺激をされて学校へ行った子はカウンセリングに来ないわ。カウンセリングに来るのは、登校刺激が失敗した子が来る。だからカウンセラーが持っている統計のサンプルは悪いんです。登校刺激の失敗した人だけ来ているから、だから「登校刺激をしてはいけない」という彼らの論拠は薄弱です。もう1つは、カール・ロジャースの心理学が日本では一番盛んで、ロジャースによれば、受容と共感ね、「そやねえ、大変やねえ」ということです、受容と共感は。そう言っていれば、人間は必ず目覚めて成長するのだと言うんです。そんなことないで。ロジャースはアメリカのシカゴ大学の学生カウンセラーでした。シカゴ大学は、日本でいうと東大とか慶応とかいうような優秀な学校で、そこの学生が相談に来るというと、だいたい恋愛問題とか就職問題だったろうと思う。それはなるほど頭の良い子だし、「そうだね、大変だね」と言ったら、自分でしゃべる中で「やっぱりこうします」と気がついて変わっていったと思います。ロジャースはその人たちを見て理論を作ったけど、世の中の人たちはそんなに頭は良くないわ。特に子どもたち、中学生たちとかは、世の中の問題を解決する方法を知らないわけですよ。だからいくらしゃべっていたって、「そうだね、大変だね」と聞かれてしゃべたって、何も思いつかないと思おう。やっぱり登校刺激はしないといけないと、私は思います。ただし今までやってきたような、罰とか脅しを使った勇気くじき的な登校刺激は効かない。家へ行って、担任の先生とかが良い先生でうまく説得をして行ったというのは、うまく勇気づけをしているわけですね。学校へもう1回戻ろうという意欲を出している。そういうのはうまくいくんです。もちろん、ひどい暴力を使ったりして学校へ引っぱって来ている人もいるけど、そんなんしたらすぐまた元に戻りますね。だから、上手に勇気づけをしながら登校について話をするというのは大事だろうと思います。そのために最初にしないといけないのは、結局のところ学校は子どもの課題だということをもう1回確認しておくことね。そこがはっきりしないと、すぐにトラブルになるから、最終的には子どもの課題なんです。でもだからといって、登校刺激しないで「あなたにお任せね」というのも、なんだねと思うんです。第2番目には、子どもと学校へ行くことについて「一緒に考えてみるか?協力してみようか?」というのを話してみて、子どもが「してみよか」と、今すぐ行かなくていいけど、遠い遠い学校という目標に向かって攻略計画を一緒に建ててみようということで、目標の一致をすることね。それから段階的に克服しないと、そんなにいっぺんに行けるようにならないと思う。だって崖から落ちたのと同じなんです。山道歩いてて崖から落ちたんです。落ちるのは一瞬で落ちますけど、上がるのは大変よ。学校というところから落ちるのはほんとに1日で落ちるけど、そこから戻るのは1日では戻れない。だからちょっとずつ計画を立ててやっていきたい。私としては、休みの前が狙いです。今、連休の寸前だから、今もし登校拒否の子が来たら、「いつから学校行こう?」「連休明けたら」「そんなアホな!連休明けて行ったら、夏休みまでが長い。だから、7月19日が終業式としたら17日とかくらいに行く」。行くと、夏休みを明るく楽しく過ごせる。「学校行ったぞー」という顔で過ごせる。全然行かないと、「行かなかった-」という顔で過ごすことになる。休みの寸前に行って、「あー疲れたー」と休みになだれ込もうではないか。それから休みになって、次、「夏休み明けから元気で行こう」と絶対思ってはいけない。9月1日に行ったらあとが長い。だから9月の10日くらいにチラッと行ってやめるとか。14日に行けば15日は休み。すぐ休める態勢で行かないといけないし、それから1時間目から登校してはいけない。疲れるから。5時間目から登校してさっさと帰ってくるとか。月曜日から登校してはいけない、疲れるから。金曜日に行くとかして、体と心をならしていくというのをやらないといけない。それも学校へポンと行ければいいけど、行けなかったら、ちょっとだけ学校へ行く。7月17日くらいに登校するとしたら、その1週間前くらいから、朝起きて、それまで起きなくていいから、朝起きて、学校へ行こうというフリをする。時間割りして、制服があったら制服に着替えて、玄関まで行って靴履いてすぐ脱いで、「只今」って帰ってきてやめる。これ結構効果があるんです。玄関出てすぐ帰ってくるとかいうのを1週間かけて体と心を馴らそう。あるいは夜行く。夜に登校して先生とちょっと会うとか。2階へ上がるのに梯をかけないといけないでしょう。梯は途中に段々が切ってあるでしょう。だから登れるんです。学校からストンと落ちたその高い距離を登るには、段々を切ってちょっとずつ登らないといけないから、それでいこうかねというような話を、たぶん子どもとします。そうすれば、学校の状況さえ良ければ、担任がイヤなヤツじゃないとかいうことであれば、たぶん行けるようになると思う。行けるようになると思うけど、「なんで学校へ行かんといかんか」の話もやっぱりしておかないといけない。アドラー心理学としては極めて明快で、要するに、自分の力を社会の役に立てるため。何の形であれ、私の力、子どもに力というのはまだ形がないわけ、その形をある程度つけて、「こんな形で社会に参加するんだよ」と決める場所が学校なんですよね。学校を出なかったらその力がモワモワとした不定形のままですから、大きなエネルギーが発揮できない。でも学校出ればだんだんその力が集約できて大きなエネルギーを発揮できるようになるから、「学校行ったほうがあなたがみんなの役に立てるようになるから」と言ったらどうでしょうか。子どもはこの理屈をわりと説得されそうに思うけど。

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