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スレッドNo.63

論語でジャーナル

3,孔子曰く、禄(ろく)の公室を去ること五世なり。政の大夫に逮(およ)ぶ)こと四世なり。故(ゆえ)に夫(か)の三桓(さんかん)の子孫は微なり。

 先生が言われた。「俸禄を与える権限が魯の公室を離れてから、五代の時が流れた。政権が大夫の手に渡ってから、四代の時が流れた。あの孟孫・叔孫・季孫の三桓の子孫も衰えたものだ」。

※浩→臣下が主君を打倒する下剋上を嫌った孔子ですが、魯の君主に代わって政権を掌握した三桓(孟孫・叔孫・季孫)も季孫氏の家臣であった陽虎のクーデターによってすっかり力を失ってしまいます。実力主義で政権を奪い取った者は、さらに自分よりも強力な相手が出てくると政権を奪い取られてしまう。陽虎の政権も間もなく没落します。三桓つまり仲孫氏・叔孫氏・季孫氏は魯の家老職の家ですが、彼らは皆、魯の桓公の後裔です。日本で、源氏が清和天皇の、平氏が桓武天皇の後胤であるというのと似ているようです。その三桓の政権にひびが入って、もとの権威を回復できませんでした。この魯国の現実の政権の転移、下剋上の具体相を感慨深く述べていて、前章と違って、これは孔子自身の言葉だとみられています。前章は、ここをもとにして後代に付加されたのでしょう。貝塚先生の解説です。
 衰えて滅び行くものへの哀愁、これは日本人好みです。典型は『平家物語』です。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす。
 祇園精舎の鐘の音には,この世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は,どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
 中国ものでは、『三国志』の終わりのほうを思い出します。「秋風五丈原」というと、横山光輝のコミック版『三国志』に詳しく描かれていました。全50巻ありましたが、私はそれを在職当時通っていたスポーツジム「オリンピア」のコーチから譲り受けて、学校の教育相談室に置きました。来室する生徒たちが喜んで読みあさってくれました。もう1つ、ずいぶん前にNHKのアニメに『三国志』があって、これもかなり詳しく描かれていました。クライマックスの「赤壁」と、そのあと逃亡する曹操を情け深い関羽が見逃すシーンまでは、一気に読めますが、そのあとの長い部分をラストまで読むのは大変です。私は、諸葛孔明が「五丈原」に惜しくも敗れて、「天は我を見捨てたかー」のシーンに深い感慨を覚えました。ネットに珍しい歌が載っていました。拝借します。↓

「秋風五丈原」土井 晩翠 作

一、祁山(ぎざん)悲愁の風更けて 陣雲暗し五丈原
   令露(れいろ)の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
   蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

二、清渭の流れ水やせて むせぶ非情の秋の声
   夜や関山の風泣いて 暗に迷ふか雁がねは
   令風霜の威もすごく 守る諸堂の垣の外
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

三、帳中眠りかすかにて 短檠(たんけい)光薄ければ
   こゝにも見ゆる秋の色 銀甲堅くよろへども
   見よや侍衛の面かげに 無限の愁(うれい)溢るゝを
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

四、風塵遠し三尺の 剣は光曇らねど
   秋に傷めば松柏の 色もおのづとうつろふを
   漢騎十万今更に 見るや故郷の夢いかに
     丞相病あつかりき 丞相病あつかりき

五、夢寝に忘れぬ君王の いまはの御こと畏みて
   心を焦し身をつくす 暴露のつとめ幾とせか
   今落葉の雨の音 大樹ひとたび倒れなば
     漢室の運はたいかに 丞相病あつかりき

六、四海の波瀾収まりて 民は苦み天は泣き
   いつかは見なん太平の 心のどけき春の夢
   群雄立ちてことごとく 中原鹿を争ふも
     たれか王者の師を学ぶ 丞相病あつかりき

七、末は黄河の水濁る 三代の源遠くして
   伊周の跡は今いづこ 道は衰へ文弊たおれ
   管仲去りて九百年 楽毅らっき滅びて四百年
     誰か王者の治を思ふ 丞相病あつかりき

 これは土井晩翠の名詩です。「桃園義盟」に始まり、孔明の苦心孤忠を画く「三国志」は、隣邦中国を想う本学の学生たちの心を痛くゆすぶったに違いありません。何時のころから校庭を「五丈原」と称し、学堂を「臥竜窟」と名づけ、そしてこの晩翠の詩を愛唱したのです。拓殖大学の校祖として初代校長桂太郎公は、明治四十五年七月、後藤新平氏等を随え渡欧露都にて、明治大帝崩御の報に接し、急拠帰国、直ちに内大臣兼侍従長を拝命、新帝を輔弼(ほひつ)申し上げました。この大任を受くると、校長を辞し、これを小松原英太郎氏に譲りました。越えて十二月組閣の大命を拝し、三たび首相の印緩を帯びましたが、翌大正二年総辞職し、病を得て帳中深く引こもりました。
 劉備玄徳の遺嘱を受け、幼帝を扶けて、天下三分の計をめぐらし、五丈原頭に馬を進め、遂いに病んで再び起たなかった諸葛孔明の心事は、そのまま桂公の胸中であったのでしょう。病に倒れた桂公の胸中を去来したものは、大正日本の前途と、東亜の形勢であったでしょう。孫文の中国革命に深い理解を持ち、アジアの回復を希念していた公の経論も、天、遂に時をかさず、これをすべて白玉楼中に送ってしまいました。
 もしも私が大学のボート部にいたころに、この歌を知っていたら、率先して歌い、先輩に知らしめ、後輩にわがもの顔で伝授したかもしれません。

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