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スレッドNo.696

野田先生の補正項から

矢野敦雄先生のこと
2001年01月28日(日)

 もう亡くなられたのだが、矢野敦雄先生は、私が大学を出て微研(大阪大学微生物病研究所)内科にいたときの、スーパーヴァイザーだった。変わった医者で、ご自分の慢性肝炎がなかなか治らなかったのが、断食療法をしたところ、血液化学検査の数値がよくなったので、断食療法の信奉者になられた。しかし、狂信的な民間療法家というタイプではなくて、冷静な科学者の目で、断食や、その他の伝統的な治療法を再検討されようとしていたように思う。

 矢野先生は言う。「人間の身体は、原始時代の生活に合わせて設計されている。だから、原始時代の人がどういう暮らしをしていたかを考えると、よい生活というのはどういうことか、自然にわかる」。矢野先生のことを思い出したのは、昨日、一日の生活リズムが狂ってしまった話をしたことからの連想だ。矢野先生は栄養内科の専門家だったから、おもに食べ物についておっしゃっていたのだと思う。今は私は精神科医だから、たとえば生活リズムのことだと思って、先生の教えを理解している。

 先生の視点は、コロンブスの卵で、言われれば、ほとんどの医者が納得すると思うが、言われないとなかなか気がつかない。最初のホモ・サピエンスが出現したときから現在まで、進化論的な時間として考えれば、ほんの一瞬のことなのだ。遺伝子のレベルでは、人間はまったく進化していない。その遺伝子は、最初のホモ・サピエンスの生活に適応した形で設計されているのだ。食物もそうだし、生活リズムもそうだし、その他、あらゆることが、原始時代の生活をしたときに、もっとも都合がいいように、それは設計されている。だから、原始的な生活をすれば、身体はもっとも適応的に、健康に、機能するはずだ。

 また、矢野先生は言う。「内科の治療法は、結局三種類しかない。口から何を入れるかと、目や耳から何を入れるかと、身体をどう動かすかだ」。これも至言だと思う。病巣を切除する外科治療はともかくとして、内科的あるいは精神科的な治療とは、何を食べるか食べないか、どういう情報を得るか、身体を運動させるのか安静にするのか、の三ヶ条に尽きている。

 食べ物の中には、薬も含まれている。薬というのは、所詮、特殊な食べ物であるにすぎないし、食べ物はすべてある種の薬なのだ。そうわかってから、私は、薬に特別の期待もしなくなったし、また、薬を毛嫌いすることもなくなった。薬は、要するに、食べ物の一種なのだ。また、食べ物はすべて薬なので、食べすぎると毒になる。また、病状(あるいは身体や精神の状態)にあわせて、食べていいものといけないものがあるのだ。

 「耳や目から何を入れるか」というのは、まさに今の私の仕事で、情報が人間を変えていく。人間をコンピュータにたとえると、処理する情報によって、ソフトウエアが変化する。心理学用語でいう「学習」というのは、単に知識を蓄積することではなくて、データベース・ソフトのプログラムを情報によって変えることだ。さらに、学習によって、ハードウエアさえ変化する。脳は、処理する情報によって変わる。脳が変わると、それを支える身体も変わる。だから、情報でもって、健康になったり病気になったりする。「気の病」だけではなくて、実際の「身体の病」も起こってくる。その後、私が、心身医学に関心を持ち、やがて精神医学に転向して心理療法の専門家をめざすのは、矢野先生のこの言葉と関係がある。

 矢野先生は、ある種のバランス感覚にすぐれた方だったので、一部の食養絶対主義の医者たちのことを、「断食さえすればなんでも治ると思っている」とか、「あんな草根木皮みたいなものばかり食っていたのでは、ほんとうの健康にはなれない」とか、よくおっしゃっていた。断食は簡単だし、飽食も簡単だ。しかし、その中間にある適正な食事を持続することはきわめて難しい。

 運動についてもそうで、まったくしないか、あるいは身体を痛めるほど思い切りするか、どちらかを人間は選びたがる。そうではない、バランスのとれた量の運動を続けることが問題なのだと思う。それはそうなのだが、では具体的にどのような運動をするのかということについては、それほど考えられていなかったようだ。今われわれが「体育」と言っているものは、かなり身体に悪いように、私は思っている。ほんとうの意味で「体を育てる」には、どのような運動をすればいいのかは、これから医学が研究していかなければならない課題だ。

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