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スレッドNo.699

野田先生の補正項から

神経を逆撫でする
2001年02月13日(火)

 このところ、人々の神経を逆撫ですることばかり書いているような気がする。半分は意識的なんだけれど。
 どういうときに、人は、神経を逆撫でされた気がするのだろう。それは要するに、その人が持っている「自明の価値観」に反するようなことを見聞きしたときだ。私だって、そういうことがないことはない。例えば、生徒に怒鳴ったり殴りつけたりしている中学教師などという人種は、考えただけでも嫌悪感が走る。暴力で人を支配しようなんて、許せないと思うのだ。しかも、自分より弱いものを。
 しかし、なぜ嫌悪感だの不快感だの怒りなどが起こるのだろうか。実体験としては、私は教師に殴られるほうじゃなかった。うまく立ち回っていたからね。だから、暴力的な教師という手がかり刺激に対して、恐怖反応が条件づけられたというわけではない。もうちょっと俗っぽく言うと、教師に殴られた「心の傷」は、私にはないのだ。だから、私が暴力的な教師を見聞きするとムカつくのは、古典条件づけやオペラント条件づけのような、動物でも起こる非言語的な現象ではなくて、言語的な、認知心理学的な出来事だと思う。いつか、「弱いものを暴力で支配するのは卑劣だ」と学んだのだ。実体験なしに、抽象概念として最初は学んだのではないか(一番ありそうなのは、少年向けの小説だと思う。TV以前の世代だから)。その後、自分は暴力をふるわれなかったにしても、誰かがふるわれているのを見て、暴力をふるっている人を「卑劣だ」と意味づけたのだろう。そのときに、同時に嫌悪感もあったと思われる。こうして、「卑劣だ」という意味づけをキーワードとして、暴力をふるう人に嫌悪感が結びついたのだと思う。
 では、「卑劣だ」と意味づけることに、どうして体感としての嫌悪感が結びついたのか。これは、たぶん、暴力教師を見聞きしたのとも少年小説を読んだのとも別の体験にもとづいていると思う。ある種の行動の集合を「卑劣」という言葉でくくっているわけだから、その中のどれかに嫌悪感が条件づけられれば、他のものにも般化するのだろう。具体的にはどういう行動に最初に結びつけられたのか、私は覚えていない。
 ともあれ、反価値的な出来事に対して、「卑劣だ」などの言葉を手がかり刺激として、嫌悪感なり恐怖心なり怒りなどが、発達のある時期に結びつけられるわけだ。だから、(某国などは)「日の丸」と聞いただけで嫌悪感があったりするわけだ。これは、個人を、ある「自明性の枠」の中に閉じ込めるのに役に立っている。自分の価値観を離れた行動をしようとすると、たちまち感情反応が起こるので、考えなくても価値観の範囲内で行動するのだ。一種の警報装置だね。
 さて、私の話がなぜ人々の神経を逆撫でするかなのだが、それは、「社会通念になっている価値観を批判している」からだろう。「心の傷はない」だの「移植医療をやめたほうがいい」だの「日の丸をかかげて反政府デモを」だのというのは、非常識な発言だということになっている。しかし、たとえある人たちが嫌悪反応をしても、いちど理性的な検討にさらしておかないといけないことたちではないかと思うのだ。

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