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スレッドNo.6

論語でジャーナル

17,子曰く、群居して終日、言、義に及ばず、好んで小慧(しょうけい)を行う。難(かた)いかな。

 先生が言われた。「寄り集まって一日中雑談をしながら、一度も話が正義について触れることなく、こざかしい悪知恵を働かせてばかりいる。これでは(天下国家について語るのは)難しい」。

※浩→「価値のある対話」「意味のある談義」で「問題の本質=本当に重要な話」に触れることができますが、無意味な雑談やこざかしい悪知恵を働かせていては、どうしようもない。弟子たちが談義しているのを見て、孔子はそう感じたのでしょう。喫茶店や居酒屋で悪事を働こうと謀議している者に警告を発しているわけでもあるまい、しかし、そうもとれる、と貝塚先生は述べられています。ご自分の学生さんたちが河原町辺りの喫茶店にたむろしているのをご覧になって感じられたのかもしれません。
 私は月に2回、津山へ出勤していましたが、お昼にお出迎えのK先生に駅でお会いすると、学校へ向かう車中からしゃべりはじめて、到着後も、相談室滞在中、それから「学習会」での講義、アフター5の「ダレヤメ(薩摩言葉=慰労会)@寿司屋」まで、懇談&質疑応答&ケース検討などで午後8時まで、私はずーーーーっとしゃべっています。これは単なる雑談ではなくほとんどが実のあるお話になっていると思います。ほとんどがアドラー心理学がらみのお話です。間に、歌舞伎のストーリーを語ることもありますし、時には「漢詩」、時には「落語」、時には、「色っぽいお話」もあります。かなり濃厚です。フランクルの「3つの価値」というのがあります。↓
 彼によれば、人間は人生に意味を求めて生きている。無意識のうちに、誰もが価値を認めていて、3つに分類される。
1)何かを創造して世の中に与える
2)何かを経験して世の中から得る
3)苦悩に対して何らかの態度をとる
 この3つの意味は、3つの価値と称する。
1)は創造価値。自分自身で絵や彫刻など、ものを作った時に感じる充実感で、世の中に何かを与えることに生きる意味を見出す。
2)は体験価値。美しいものに触れたり、きれいな景色を見る、美しい絵を見る、楽しいことをするなどによって感動する気持ち。世の中から何かを受け取るときに伴う体験に生きる意味を見出す。
3)は態度価値。死や不治の病、障害、愛する人の死など避けることのできない運命に対して、苦境にあってどんな態度をとるか という人間の尊厳の価値。これに生きる意味を見出す。
 創造、体験に意味を発見できる人はそれで生きがいを感じる。創造、体験ができなければ、態度価値がある。避けられない運命的な出来事において生きる態度に「態度価値」が実現される。人間は、死ぬ直前まで意味を持っている。「人間には責任、つまり意味と価値を充たし実現する責任がある」(フランクル『意味への意志』)
 高齢になると、「創造価値」の実践は次第に困難になりますが、「生きる意味」はまだ、「善美なるものを体験する」ことに存在します。私は今もこの2つの価値を体験できていて、幸せです。もっと高齢になるか、あるいは心身ともに衰えたら、残る「態度価値」だけになるのでしょう。
 フランクルはアドラーの関わりがあった人です。そのアドラーの主著に『人生の意味の心理学』というのがあって、冒頭に、「われわれ人間は、さまざまの意味づけの世界に生きている。われわれが経験するのは、決して純粋な事実などというものではなく、常に人間にとって重要な事実というものである。われわれの経験にしてからがすでに、その根源において、われわれの人間的な目的に規定されている。『木』は、『人間との関係にある木』を意味しているし、『石』は『それが人間の生活の一因子でありうる限りにおいての石』を意味している……いかなる人間も、意味づけなしには生きられない。われわれが現実を経験するのは、常に、われわれが現実に付与する意味を通してであり、われわれは、現実そのものではなく、すでに何か解釈されたものとして、それを経験するのである」。

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