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スレッドNo.709

野田先生の補正項から

語りえないもの(3)
2001年04月06日(金)

 ある種の宗教体験は「語りえない」のだが、だからといって、「瞑想しなさい」だの「念仏なさい」だの「巡礼に出かけなさい」だのといった手続きだけを示して、後はすべて個人の体験にまかせるというのも野蛮な話だ。「語りえないもの」は明晰には語りえないので、逆にいうと、なんでも語れる。実際、おかしなことを語る人々がいる。
 私が嫌いなのは、ある種の神秘主義者たちで、新しいところだと玉城康四郎だの中沢新一だのといった人たちだ。この人たちは、「因果性に支配された世界の背後に、因果を超越したものがある」と前提する。因果を超越しているものは語れない。なぜなら、言語は因果性を記述するものだから。したがって、因果を超越したものに触れるためには、言語を超越しないといけない。どうして超越するかというと、身体によって超越する。要するに「行」によって超越する。おそろしく荒っぽいまとめ方だが、彼らが言っていることの要点はこういうことだと思う。
 しかし、そもそも、「因果を超越したものがある」とか「因果を超越したものはない」とかいうこと自体が語りえない。だから、「因果を超越したものがある」と言う人は嘘つきだ。もっとも、「因果を超越したものはない」という人も嘘つきだが。ともあれ、因果を超越したもの、如来蔵と呼ばれたり仏性と呼ばれたり菩提心と呼ばれたり道と呼ばれたりするが、そういうものがあると主張する人は、「語りえないもの」について根拠のない主張をしていることになる。ここがまずいけない。
 宗教体験というものはある。あるけれど、その体験の向こう側に、因果を超越したものを前提する必要はない。したがって、言語を全面的に否定する必要はない。語りうることは語りうるし、語りえないことについても詩的になら語りうる。むしろ言語を大切に慎重に取り扱うことが、よい宗教体験をするための鍵であるように思っている。言語を否定して身体的な行に没入するのは、「人間をやめて動物にかえれ」と言っているのと同じことで、人と生まれながらなぜわざわざ人であることを捨てるのか、どうも納得がいかない。
 宗教体験をするための手続きには、身体の行だけではなくて、精神の学習も含めておかなければならない。ここで「学習」といっているのは、手続きの記載のことをいっているのではなくて、いわゆる教義のことをいっている。語りえないものを語るために、どういう言語が必要なのか、ゆっくり考えてみようと思う。



語りえないもの(4)
2001年04月07日(土)

 神というのは、一種のメタファー(隠喩)だと思っている。ある体験があって、それは「語りえないもの」の領域に属することで、しかたがないのでメタファーでもって語る。キリスト教的な言い方をするなら、「聖霊に満たされる」ということがあって、その向こう側にもっと「大きなもの」の存在を感じて、それを普通の言葉では言えないので、あえて神という。
 仏教は、インドの文化では、神という用語がただちに人格神を意味するので、メタファーとして使わないことにしたのだと思う。ゴータマの在世時、すでに神という単語には分厚い手垢がついていたのだろう。「聖霊に満たされる」ということはゴータマにもあったはずだが、彼はそれについては語らないで、ひたすらそれを体験するための手続きを説明する。これはたしかにひとつのやり方だと思う。しかし、地図を持たせないで、「タバコ屋の角を右に曲がって、次の次の信号を左に折れて、道なりに行くと」というたぐいの説明になってしまって、昨日書いたように、いささか「野蛮」な感じがする。
 弟子たちもそう思ったようで、やがて「地図」を作り始める。それがアビダルマ哲学で、ゴータマに忠実にメタファーの使用を可能な限り避けて、できるだけ(当時の水準で)「科学的」な用語で語ろうとしているように思う。しかし、「聖霊に満たされる」という体験は、そもそも科学的な用語で語れる対象ではなかったのだ。だから、アビダルマ哲学は、結果的には失敗していると思う。
 如来蔵主義者たちは、「因果を超えた存在」でありながら非人格的な「如来蔵」を考えつく。これはメタファーだ。メタファーだけれど、神にくらべるとソフィスティケートされていて、その分だけ、メタファーじゃなくて、それが実在するものであるかのように思い込みやすい。だからかえって、神という用語よりも危険だ。
 中観派は、そういうことに敏感に気がついたのだと思う(歴史的に言うと、ナーガールジュナは如来蔵派よりも前の時代の人だが、中観派が形成されるのは、如来蔵派や唯識派よりも後の時代のことだから、この話はおかしくない)。彼らは、一切のメタファーを拒否してしまう。科学的な用語を拒否するかどうかについては、中観派の中で意見の不一致があったようで、限定つきで許容する人(バーヴァヴィヴェーカなど)もいたし、一切許容しない人(チャンドラキールティなど)もいたが、いずれも、如来蔵だのアーラヤ識だのといったメタファー(あるいは仮説構成体)は拒否した。
 これは、けっこう現代的な話題なんだ。臨床心理学はメタファーの実体化に満ちあふれているのでね。

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