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スレッドNo.725

野田先生の補正項から

いまどきの娘
2001年06月12日(火)

 私にはふたりの実の娘がいて、今はいっしょに暮らしていないが、ときどきやってくる。ふたりとも、とてつもない理系女で、上の娘(26歳)はマックに画像ソフトを満載してDTP関係の仕事を渡り歩いていたが、不景気で定職を失い、今はバイトでおじさんのためのパソコン教室の講師をしているようだ。下の娘(23歳)はC++で書いた夢を見るような人で、プログラミングが大好きみたいだが、これまた就職に失敗して、気の毒にコンピュータと関係のないバイトで暮らしている。彼女たちの会話は、パソコン大好きおじさんの私にも、ときどき意味不明だ。文系出身のお父さんだと、たいへんだろうね。彼女らが私のところにやってくるときは、どうせおねだりで、今日もやってきて、外付けハードディスクをねだりとられた。
 男の子たちがくすんでいるのに較べて、女の子たちは元気だ。時代の雰囲気なんだね。上の方で女の大臣が元気なように、下々では娘たちが元気だ。男の子たちは、男性への伝統的な期待の重さに押しつぶされてもおり、うちの娘みたいな理系女に「なんだ、こんなことも知らないの?」と軽蔑されてしょげてもおり、ちょっと性的に元気だと「セクハラだ」と言われて窮してもおり、すっかり去勢されてしまったみたいだ。まあ、一昔前の男尊女卑時代のつけを払わされているわけで、しばらくはしかたがないのだろうが、彼らに責任があるわけではないので、気の毒ではある。



日記才人
2001年06月13日(水)

 数日前から日記才人(「にっきさいと」と読む)に登録したので、下のほうに「投票ボタン」がついている。日記才人というのは日記ホームページのリンク集で、まあいわば、日記専門のYahooというところだ。詳しくは日記才人へ直接行って調べていただくとして、気が向けば投票してください。
 すでに日記才人を知っている人からは、「野田さん、どうして日記才人に入ったのですか?」と、やや咎めるような口調で聞かれる。それもわからないではない。老舗のお菓子屋さんがデパートに出店したような感じで受けとられているのだと思う。たしかに、書くときにいくらか意識してしまう。「お得意さん」だけにアドレスを知らせている間はまったく気楽に書いていたのだが、「一見(いちげん)さん」が読むだろうと思うと、なんだか力が入る。これは、よくない副作用だ。仲間内で書いているときと同じ感じで書きつづけたいと思っている。そうでないと、デパートに出店したお菓子屋の味が落ちるとの同じことがおこってしまう。リラックス、リラックス。
 ところで、昨日会った上の娘はホームページを7つ持っていると言っていた。遺伝なんだな。私は、個人用のが3つと、アドラー心理学の仕事関係のを4つ面倒をみている。仕事用のはともかくとして、個人用のは、ここがいちばん開放的で、「旅のページ」はそっと置いてあるだけ、もうひとつのは完全に沢仲間の連絡用だ。どうしてもこうなってしまう。みんなに見てほしい情報もあるし、知り合いにしか知らせたくない情報もある。聞いてみると、娘も同じような構造にしているそうだ。積極的にホームページを利用している人の多くがこうしているのかもしれない。
 日記才人に登録することでこのページをより開放的にしたのは、日本アドラー心理学会が方向転換をして、アドラー心理学をより広い世界に普及していくと決めたことといくらか関係がある。「アドラー心理学学習者はこんなことを考えているんだ」と知ってもらうことが、あるいは役に立つかもしれないと思ったので。まあ、それだけが理由ではなくて、自己顕示欲を満足させるのも理由かもしれないがね。



法の無常
2001年06月14日(木)

 私の東京の事務所のスタッフが、どういうわけか仏教に凝って、ひとりはスリランカ人の長老に、もうひとりはチベット人の尊者に弟子入りしてしまった。私が上京すると、つかまえて、さかんに質問する。系統の違う師匠の話を聴くと混乱するのではないかと思うのだが、まあ、初歩的なことならいいだろうと思って答えている。
 今、彼女らがこだわっているのは「縁起」だが、縁起というのが外的世界に成立する法則なのか、あるいは個人の認知枠 frame of reference なのかと問う。私は、「もし縁起が外的世界に成り立つ法則だとすると、永遠不変の真理になってしまって、あまり仏教らしくない。そうではなくて、個人の認知枠として理解すると、諸行無常などの他の法則と無矛盾になる」と答えた。
 なぜこんな妙な議論をするかというと、それはこういうことだ。和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(岩波書店)に次のような一節がある。

 「法」は過ぎ行かざるもの、超時間的に妥当するものである、従ってそれは自性を持せねばならぬ。たとえば「無常」という法はそれ自身は無常でなくして自性を持し、一切の有者を過ぎ行くものとして理解せしむる「軌」となる。(p.114)

 すなわち、人間や世界は無常で、たえず移り変わっていき、不変なものはなにもないが、「不変なものはなにもない」という「法」自体は永久不変なもので、時間的にも空間的にも、どこででも妥当する「真理」だというのだ。これを、松本史朗先生が『縁起と空』(大蔵出版)の中で批判して、次のように書かれる。

 さて博士は仏教学者の常として法 dharma の語義をも問題とされるが、すでに述べたように法は普遍、常住でなければならないという発想が、法に関する博士の全理解を誤らせている。──(中略)──私は「法」の語義に関する諸学者の理解のうち最悪のものは、「法」は“真理”を意味し、かつ“個物”をも意味する、というものだと思っている。この解釈では、真理(理)が個物(事)に貫通するという内在主義、華厳哲学がすぐにでも完成する。──(中略)──今、仏教書や仏教学の解説書には「真理」ということばが満ちあふれている。それは、この語や「理」という語が中国や日本の思想史の中でいかなる役割を果たしてきたかを知らないで、または知りつつもそれを仏教思想の極致と考えて、用いるのであろうが、この「真理」という考え方こそ、仏教を永く非仏教と化してきた最大の功労者なのだ。(p.26)

 サンスクリットでは、法 dharma というのは、「保たれたもの」という意味で、だから仏法 bauddha dharma というと、「仏が保っていたもの」であり、具体的には「仏の考え方」のことだ。つまり、ゴータマの認知枠だ。もっとも、ゴータマの考え方そのものはわからないので、われわれにわかるのは、ゴータマが説法して外在化した言葉だけだ。だから、より具体的には、仏法とは仏説のことだ。チベット仏教では、実際にこう解釈しているそうだ。
 だから、「令法久住」(法をいつまでも存続させる)ということが問題になるのだし、正法・像法・末法というようなことが問題になるのだ。法は、言葉であり認知枠であるから無常なのだ。
 法が認知枠だという考え方の別の論拠は次のようなことだ。世界理解の枠組みには、論理的に、次の4種があるように思う。
1.決定論:すべてが因果的に決定されていて、自由意志はない。
2.偶然論:世界はただ偶然で動いており原因もなければ結果もない。
3.絶対神論:神がすべてを決定している。
4.縁起論:個人の自由意志を認めつつ、因果性も認める。
 この4種は、実際に古い経典に出てくる。縁起は、他の3つとの対照のもとに考えなければならない。じゃあ、なぜゴータマが縁起説を選んだのかというと、他の3つでは道徳の根拠にならないからだ。なるほどそうだね。決定論だと、私が何をしたって、行為そのものが過去の原因の必然的結果であって、私の自由意志による行為ではないわけだから、決心して善行することもできないし決心して悪行することもできない。偶然論だと、何をしたところで結末はそれとは関係なく返ってくるわけだから、悪行をしても何も悪い結末はおこらないことになる。絶対神論は、神に対して特殊な儀式でもって交渉することが結末を決めるのであって、現実世界で善行をするか悪行をするかが結末を決めることにならない。だから、縁起論だけが、道徳の根拠として可能なのだ。
 つまり、世界が実際にどういう法則で動いているかにかかかわりなく、世界を縁起説という認知枠でもって理解することが、われわれが道徳的に生きることが可能になる唯一の道であることになる。

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