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スレッドNo.740

野田先生の補正項から

SMAPに追い散らされる
2001年07月28日(土)

 今日と明日とは、新潟県長岡市でアドラー心理学の講義をするのだが、同じ日にSMAPのコンサートがある。朝から駅前は若い人々でいっぱいだし、鉄道はすべて満員のようだし、道路も混んでいるようだ。会場は、信濃川の向こう岸なのだそうだが、周辺へは車では入れないことになっていて、駅前からシャトルバスが出ているのに乗らないといけないようだ。その案内をする人たちがハンドマイクで叫んでいる。茶髪の若者が群れになって移動している。
 私はすこし前に長岡にきていたので、交通については問題はなかったのだが、ホテルがとれない。しかたなく燕三条の駅前のホテルを予約したのだが、今では燕三条はおろか、新潟市内も、さらには柏崎も、ホテルはとれないという。ビジネスなどで出張してくる人もいるだろうに、どうしているんだろう。



講義の値打ち
2001年07月29日(日)

 新潟県長岡市でアドラー心理学の講座をしているのだが、富山大学の先生の向後千春さんが受講してくれている。朝食をいっしょに食べながらあれこれ雑談をした。その中で出た話だ。
 私は、佛教大学文学部仏教学科の通信教育を受けていたことがあるが、スクーリングのときの講義がとても面白かった。私だけではなくて、他の受講生も熱心に聴いていて、私語をする人も居眠りをする人もいなかった。むかし、医学部で講義を聴いていたころは、しかし、そんなに面白くなかった。それどころか、「早く終わらないかな、眠いな」などと考えたりしていた。ときどき居眠りもしたし、サボったりもした。
 じゃあ、客観的にみて、佛教大学の仏教学の講義はよくできていて、医学部の講義はできが悪かったのかというと、けっしてそんなことはない。今、タイムマシンで昔に戻って、医学部で解剖学なり内科学なりの講義を聴かせていただくことができるとすれば、感動的に面白いに違いないと思う。教える立場になってはじめてわかったのだが、教師はたいへんな量の下準備をして、全力投球で講義をするのだ。実際、むかしの医学部の先生方の講義を思い浮かべて、そう思う。実に実にありがたいお話をしてくださっていたのだと、今になるとわかる。だから、悪いのは私のほうなのだ。猫に小判というやつだな。講義の値打ちがわかっていなかったんだ。
 向後さんにこんな話をしていたら、彼は看護学校にも教えにいっているのだが、卒業生が聴きにくることがあって、学生とは熱心さがまったく違うというようなことを言っていた。また、彼自身が、いまは私の生徒をしているわけだが、とても熱心に聴いてくれている。大人になって、みずから必要を感じて講義を聴くとき、はじめて講義の値打ちを鑑賞する能力ができるのだ。
 高校を出て、そのまま大学へ入って、しかも親に金を出してもらっているのでは、講義のありがたさがわからないんだよな。いちど社会へ出て、それから自分の金で大学に入るのであれば、うんと熱心に勉強するだろう。そういう制度にしてしまったらどうだろうか。



善行の可能性
2001年07月30日(月)

 まだ読みはじめたばかりなのだが、金谷治『中国思想を考える』(中公新書)という本を読んでいる。中に、儒教がいう「仁」について、次のような記載がある。

 「仁」はもろもろの徳を総合する意味を持っていますが、その核になるものは「忠恕」だとされています。(中略)「忠」とは人の真心です、良心と考えてよいものです。「恕」とは思いやりで、その真心から温かく人をおしはかることです。「自分の望まないことを人に押しつけない」こと(顔淵篇)、「他人のことをわが身に引き当てて考えられる」こと(雍也篇)、それが「恕」といわれる思いやりです。

 仁とは「人を愛することだ」とも言われていますが(顔淵篇)、その愛とはこうした温かい思いやりをかけることを意味しています。最高の徳である「仁」が、神の命法といった厳しいものではなくて、人間の真心とそれにもとづく思いやりの情を基礎にしているというのは、大事なところです。(pp.35-36)

 これはこれで完全に理解できるのだが、しかし、そういう「仁」って人間に可能なのだろうかと思ってしまう。
 悪行をおこなっているとき自分は確実に悪人だが、善行をおこなっているときに善人だとはかぎらない。人間の行為は、しばしば(あるいは常に)私利私欲に根ざしていて、自己一身の利益(たとえば生存することや所属すること)を目的におこなわれているにすぎない。たまたまその行為が他人に利益となっている場合もある。それを他人が善行だと思い、それをおこなう人を善人だと思うのだ。それはいいのだが、その行為をおこなっている本人がそれを善行だと思い、自分を善人だと思うのは、実際にはそうじゃなくて、自己一身の利益をはかっているだけなのだから、自己欺瞞だということになる。心の底からの善行が、あるいはあるのかもしれないが、それと、実際には利己的な行為が表面上善行に見えているものとを、区別する方法がない。
 儒教はこういう点、きわめて楽観的だ。ほんとうの善人がもし存在して、その人が仁を実践して生きているのなら、それはたいへんに結構なことだ。しかし、善人じゃない人が、行為だけの善行をおこなって、それを手段として自己一身の利益を計りつつ、しかもみずからを善人だと思い込んでいるのであれば、それは、悪人が悪人と知りつつ暮らしているよりも救いがたい状態だと思う。親鸞みたいなことを言っているな。

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