サルは絵を描かない(2) 野田俊作
サルは絵を描かない(2)
2001年08月20日(月)
私の愛読書、池田清彦『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)を読み返していると、ハンソンの規約主義科学論の説明の中で、絵の認知には、あらかじめ頭の中に理論(つまり言語)をもっていることが必要だということを書いてあった(pp.42-50)。この本は、今までに何度か読んだのに、こういうことが書いてあることを忘れていた。こんなものなんだな。先生は、一所懸命いいことを教えてくださっているのだが、生徒のほうは、そのときそのときの興味と力量に応じてしか、先生のおっしゃることを理解できないのだ。
絵ではないが、ローマ字を見たり書いたりして、いつも不思議に思う。大文字のAと小文字のaとは、まったく似ていないが、同じものとして認知する。手書き文字の認知になると、もっと不思議で、傾いていたり、一部が書かれていなかったり、癖がひどかったりしても、ちゃんと認知する。なぜ認知できるかというと、あらかじめ「典型」が頭の中にあって、それと照合するからだろう。
絵も同様で、あらかじめ、頭の中に「典型」があって、それと照合して、はじめて意味を持つのだ。だから、猫の絵を人間が見るときには、人間の頭の中に、あらかじめ猫の「典型」があって、それと照合して、子どもが描いたまずい猫の絵でも、ちゃんと猫だと思う。しかるにサルやネコの頭の中には、そういう「典型」がないんだろうな。
このような「典型」を、池田先生は「理論」ないし「言語」と呼ばれるが、ちょっと飛躍しすぎているような気もする。せいぜい「イメージ」とか「見取り図」とかいう程度のものではないのかな。
台風
2001年08月21日(火)
台風11号が大阪に近づいていて、とても嬉しい。嬉しいと言ってはいけないね。被害を受ける人もいるのだから。だから、小さな声で言うが、嬉しい。
パートナーさんも台風が好きだ。彼女は台風を見物するのが好きなのだが、私はそれだけではない。見物も好きなのだが、台風の直後に山に登ると、空がすばらしく美しい。だから、休暇が取れるのなら山へ行く。残念ながら、明日・明後日は仕事が入っているので登山はできない。でも、イメージするだけで楽しい。
山だけでなく、沢も美しくなる。今年は渇水気味だったのだが、これで水量は十分になるだろう。9月には何度か沢登りを計画しているのだが、水がないのではないかと心配していたのだ。
もっとも、土石流で埋まってしまう可能性もないではない。全国の沢が、とても微妙なバランスの上で、なんとかかんとか現状を保っているのではないかと思う。そのバランスがほんの少しでも崩れると、神童子谷のように(07/12)死んでしまうのだ。困った世の中だ。
サルは絵を描かない(3)
2001年08月22日(水)
絵画療法の研究をしている友人から、ガードナー(Howard Gardner)『子どもの描画』(誠信書房)という本に次のように書いてあると教えてもらった。
チンパンジーの<自己認識>に関する同様の研究の追跡調査として、ルイスは乳児の顔に赤い口紅をこっそりつけて、それから彼らが鏡のなかの自分の像を調べる機会を与えた。像をただ見つめるだけの子、鏡を触るだけの子に自己概念があるとは信用できなかった。口紅を見て、手を自分の顔にやった子は、おそらく鏡映像が自分のものだと理解しているだろう。一歳児が自己概念を示すことはめったにないが、二歳児はほとんど確実にできた。(pp.67-68)
著者が言いたいのは、ある年齢になると乳児は、鏡の中の自分を見て自分だと認識するが、チンパンジーはしない、ということなんだろう。ラカンが「鏡像段階」という概念でこれを説明しているが、ガードナーはラカンを知っているんだろうか(それにしてもひどい訳文だ)。
私が言っているのは、このことと関係があるのかないのかわからない。「鏡に映った自分の像を自分だと認識する」ということと、「線で粗雑に描かれた猫を猫だと認識する」こととの間には、だいぶ隔たりがありそうに思う。私はむしろ、線画のような抽象的なものを具体的な現実の存在と関係づけることについて、この話をはじめたのであって、鏡に映る像とか写真とかのように、写実性の高いものは、性質が違うんじゃないかなという気がしている。どう違うかは、だいぶ理屈をこねないと説明できないように思うが、さしあたっては、直感的に違うと思う、ということでおいておこう。
また、その友人は、『造形教育事典』(建帛社)から、次のような一節を教えてくれた。
幼児が自分の描いたなぐりがきの形に暗示を得て「ブーブー」とか「キントト」などと名付ける時期である。したがって「命名期」とか「意味づけ期」と呼ばれる。
これは、初め運動にばかり感じていた興味に視覚的なものが加わり、併せて言葉の発達とともに、描かれたものを意味化する傾向が表れたものである。描くことが手の運動から想像的なものへと発達したことを意味している。この時期からチンパンジーなどの絵描き行動をはるかに超えることとなる。(林健造)
言語が先に出て、それから写生画が描けるようになるという話だ。どうも気に入らないな。言語の発生、あるいは描かれた絵に名前を付ける、ということと、世界を絵として写す、あるいは絵から世界を想う、ということとを、こんなに短絡的に結びつけていいのだろうか。「先に抽象的な線画が現実の対象への記号になっていて、それから言語がその両方に対して付けられる」というような理屈だってこねることができそうに思う。
西洋人は、「自己」と「言語」を、人間精神を説明するときの自明の前提として話をする癖があるので、どうもピンとこない。さらに、その二つが人間と動物の違いだと、最初に決めてから考えはじめる。そういうことをはじめに決めてから、観察なり実験なりをすれば、当然、それを支持するデータばかり集まるだろう。
ともあれ、サルが絵を描かないということは、文献によって裏づけられたので、よかったことにしよう。
サルは絵を描かない(4)
2001年08月23日(木)
パートナーさんは、ある日突然、部屋の模様がえをする習性があって、私が帰宅すると、居間の様子がすっかり変わっていたりする。もっとも、新しい家具が入ったりするわけではなくて、以前からあった家具の配置が変わるだけだ。たとえば、テーブルのあった位置に食器棚が来ていたり、テレビのあった位置に本棚が来ていたりする。私は、もとテーブルのあったところに食器棚があっても、それをテーブルだと思ったりしないで、食器棚だとわかるし、前とは違うところにテーブルがあったとしても、それをテーブルだとわかる。
なにをクダらないことを書いているのかと思われるかもしれないが、これは重要なことなのだ。テーブルがどこにあろうが、それをあのテーブルだと認識できるのは、私の中にあのテーブルの思い出があるからだ。しかも、その思い出は、現実のテーブルの「像」ではない。現実に見える「像」は、ある角度から見た絵なのだが、私は、上から見ても横から見ても、ひょっとしたら一部だけを見ても、テーブルクロスがかかっていても、ちゃんと「あの」テーブルだとわかるのだから、感覚されている「像」とは別に、典型としての「図」があるに違いない。だからこそ、前に見た角度と違う角度からそのテーブルを見ても、同じテーブルだとわかるのだ。
たえず変化する現象の「像」を、変化しない「図」にあてはめる。この「図」のことを、構造主義者たちは「シニフィエ」というのだが、ふつうこれには、音声や文字による「シニフィアン」、たとえば「テーブル」という音声や文字、が対応すると考えられている。しかし、今は、音声や文字ではなくて、「絵」がシニフィアンの役割を果たすと考えている。(「像」と「図」と「絵」とを使い分けているので、注意)。
こういうことを考えるのは、サルが手話や絵文字を理解するのに、絵を描かないことを不思議に思うからだ。サルが人間と対話できるということは、サルにもシニフィエを作る力があるということになる。ということは、サルにも「図」があるんじゃないかということになる。じゃあ、どうしてサルは、手話や文字しかシニフィアンとして使用しないのだろうか。音声を使用しないのは発声器官の構造のためだと言われている。それは理解できる。では、絵を使用しないのはなぜか。手で書かないのは運動神経の未発達かもしれないが、こちらで描いた絵を実物と対応づける力がないみたいだから、「絵」と「図」との間に対応関係がないみたいだ。
そういうことを考えていると、昨日引用していた人々が、ヒトの乳幼児の発達で、言語が先にあって、それから絵と実物とを対応づけるという言い方は、やや乱暴であることがわかる。「図」と「言語」の対応と、「図」と「絵」の対応は、別のことのようだ。