素質と教育 野田俊作
素質と教育
2001年08月28日(火)
アドラー心理学のカウンセラー資格試験の合格率が低いことについて書いていたのだが、ある場合には、受講者に「人の話を聴く」素質がないことを問題にし、ある場合には、私の教え方に問題があるのではないかということを考えた。しかし、「低合格率の原因は、受講者の資質なのか、教師の教え方なのか」という問いの立て方は、一種の「うじ・そだち論争(nature-nurture controversy)」で、論争の構造上、永久に決着はつかないだろう。要するに、どちらにもいくらかずつの責任があるのだ。
私の友人に、はじめ外科医を志して、やってみた結果、適性がないことが自分でわかって、他科に転進した人が何人かいる。考えてみると、私も、学部学生の時代に、神経生理学の研究者になろうと、ちょっと思った。神経生理学の研究室にお邪魔して、先輩の実験を見せていただいたりして、ちょっとだけ実験もさせていただいて、1年もすると、基礎研究者にまったく向いていないことがわかった。適性がないということは、実際にやってみないとわからないものであるようだ。
外科から他科に転進した人の中には、本人が納得して転進した人もいるが、外科の教授に「お前は向いていないから、やめろ」と言われて、半ば不本意に転進した人もいる。やってみても、適性がないことが自分でわからない人が、たしかにいるようだ。そういう人たちは、不本意に転進して、後は不幸な一生だったかというと、そうでもなくて、他科でけっこう満足して暮らしていることが多いように見受ける。
音楽家やスポーツ選手などは、小さいころから淘汰がかかる。だから、子どものころ、ピアニストやプロ野球選手になりたくても、実際に音楽大学に入ったり、高校野球で甲子園に出たりできる子どもはほんの一握りで、他は早い時期に断念して他の進路を考える。逆に、音楽大学に入れた子どもや甲子園に出られた子どもは、素質なり適性なりのある子どもばかりだから、その後、伸びるか伸びないかは、いい教師に出会うかどうかに、相当かかっていると言ってもいいのではないか。
カウンセラーという職業は、今のところ淘汰圧が低いので、ほとんど誰でも、養成講座を受けることができる。だから、適性がない人でも、実際に養成講座を受けるまでわからない。だから、厳格な試験をすると不合格者が多くなり、教師は「うじ・そだち論争」で悩まされることになるのだ。
別に、教師としての責任を逃れようとして、こんなことを書いているわけではない。私が言いたいのは、以下のようなことだ。
外科医とかピアニストとか野球選手とかカウンセラーとかのような専門的な職業には、すべての人が向いているわけではない。そのうちのあるものには、早い時期に淘汰圧がかかり、あるものにはかからない。淘汰圧がかからない職業については、現場に出てからはじめて適性がないことがわかる場合もある。だから、試験の合格率が5割以下というのも不思議ではないかもしれない。しかし、適性がないと思われる人々にも、教育法を工夫すれば、能力が伸びる可能性はある。
モーツァルト
2001年08月29日(水)
1か月ほど前にフレッツIDSNにした。家にいるときはパソコンをインターネットにつなぎっぱなしにして、ラジオを聞いている。外国の放送局につないで、クラシック音楽を鳴らしているのだが、有線放送と契約したみたいなもので、なかなかいいものだ。スピーカをもっといいのと買い換えようかしら。パソコンを買ったときにおまけについていたものだから、たいした音じゃない。
モーツァルトが嫌いで、自分から好んで聴くことはまずないのだが、こうして向こうから供給してくることになると、かなり高い確率で、あの独特の音に出会う。まじめに聴かなければ別に被害はない。その点で、ブラームスとは違う(ブラームスも嫌いなのだ)。彼の音楽は、転調やら主題の入れ替えやらが非論理的で、本気で順を追って聴くと、ちょっと耐えられない。しかし、BGMに鳴らしておく分には害がない。思想がないからね。
好き嫌いは別にして、モーツアルトの管弦楽は、いつも嬉しげに歌っていることに感心する。バロック音楽時代のドタドタした通奏低音から逃れて、自由になって、言いたいことが言えるようになった喜びで跳ねまわっているんだな。音楽がいちばん書きやすかった時代じゃないかな。モーツァルトはまじめに聴きこんだことはないが、ハイドンは一時しっかり聴いたり演奏したりしたが、ほんとうにシンプルに書けている。それ以前の時代にもそれ以後の時代にも、あの時代のような透明な音楽語法はなかった。
他の芸術や思想や科学と関係づけて音楽を聴くことがないので、ハイドンやモーツァルトの時代に、他の領域でどういう芸術家や思想家や科学者がいたのか知らない。でも、きっと時代精神なんだ。こんど、暇なときに、ちょっと調べてみよう。
カント 1724-1804
ハイドン 1732-1809
ゲーテ 1749-1832
モーツァルト 1756-1791
山に会う
2001年08月31日(金)
山の中にいると、「いま、ここ」で見ている風景はきわめて一回限りのもので、この次に同じところへ来たときには同じものは決して見ることができないと思う。同じ山や同じ川へ何度も行くが、毎回、まったく違ったものが見える。光も違うし、流れも違うし、木々も違う。晴れている日は晴れている日の美しさ、雨の日は雨の日の美しさがある。夏は夏の美しさ、冬は冬の美しさがある。
風景が移り変わるのと同じことで、実は私も移り変わっている。山へ来るのは、町の暮らしから切り離されて来るわけではなくて、その直前までの日常生活をぶら下げたままでやってくる。この前来た時の直前の日常と、今回来る直前の日常が違うから、山へ来た私は違うものを引きずっている。それがやがて、山を縁として、日常から離れていくのだけれど、山が違うものだから、離れていく場所も違っている。だから、山が違うように、私も毎回違うところに着く。
山は大きな縁起の流れの中にあって、私も縁起の流れの中にあって、あるとき私と山が因縁和合して出会う。私の側に因(因縁)があって山の側に縁(所縁縁)があるが、その両者が出会うためには、その出会いを支える、世界全体の流れである大きな縁(増上縁)というものがあって、それでもってようやく山は、私の前にあらわれる。そういうものの捉え方に、このごろなじんできて、生きていることをとてもありがたいと思う。
森を見ていて、実はこの木々は自性空で、実体があるように見えているが、実際にはたえず縁起によって移り変わる無常の現象の一瞬の断面にしかすぎないのだとも思い、それを見ている私も自性空で、実体があるように見えているが、実際には絶えず縁起によって移り変わる無常の現象の一瞬の断面にしかすぎないのだと思うと、今という時間があってここという場所にいられることが、かぎりなく嬉しくなるのだ。
抹香臭い話でごめんね。もう秋なんだな、こういうことを考えてしまう季節になったんだ。
山に会う(2)
2001年09月01日(土)
山や川は、たえず移り変わる現象であるにすぎず、実体はなく、たとえてみれば夢のようなものだ。私もまた、実体として存在するわけではなく、やがて滅んでゆく現象であるにすぎない。われも夢、世界も夢、諸行は無常にして空だと、仏教は言う。松明(たいまつ)を回すと光の輪が見えるが、世界はその輪のようなもので、実際には存在せず、ただ見えているだけだとたとえる。
中世の日本人は、このようなとらえ方に慣れ親しんでいて、一方では無常の自然に「もののあはれ」を感じて耽美的に生きようとしたし、一方では刹那主義に陥って享楽的に生きようとしたようだ。
チベット人が書いたものを読んで、中世日本人の理解は、たぶん間違っていると思うようになった。インドの仏教者たちが言いたかったのは、自分にも世界にも実体がないからこそ、縁起が可能になる。縁起が可能になるから、迷っているわれわれも、善業という因の積み重ねによって、やがて悟りという果にいたることができる、ということだったようだ。つまり、諸行無常だの空だのというのは、日本人が考えたような情的な感慨ではなくて、きわめて知的な論理的要請だったのだ。
この一切が空でないとすると、生起は存在しないし、滅も存在しない。そうであるとすると、四諦は存在しないという誤りを汝は犯すであろう。(『中論』第24章)
「自分や世界に実体があるとすると、変化がおこらないのだから、悟りが生じることもないし、迷いが滅することもない。そうであれば、因から果に至る縁起もなくて、善業を因として迷いを脱し、悟りという果に至る道もないことになる」という意味だ。
とはいうものの、私も日本人なので、情的な感慨もある。情的な感慨と知的な論理が二重写しになって、二倍楽しめるわけだ。美しい森の中にいて、澄んだせせらぎを見て、この時があることに情的に感謝もし、やがて私にも救いの日が来るのだろうと、無常のもうひとつの意味を知的に思いもし、すっかりリフレッシュして町に帰る。
破門と寛容
2001年09月02日(日)
朝、熊本に来て、夕方まで仕事をして、終わってから繁華街を歩いていた。大きな本屋があった。ついフラフラと入ってしまう。一冊の本がなんとなく輝いていたので、高かったけれど買ってしまった。佐々木閑『インド仏教変移論―なぜ仏教は多様化したのか』(大蔵出版)。この本に書かれていることは、一般の人々には、ほとんど興味のない話題だと思う。でも、私は、ものすごく面白かった。
話は、アショーカ王の碑文から始まる。その中に、仏教教団の分裂と和合についての記載があって、それを振り出しにして、推理小説風にさまざまのことがわかっていく。まず、「破僧」、つまり教団を破壊する行為、という言葉の定義が、どうもアショーカ王(紀元前304-紀元前232)の時代に変わったらしいことがわかる。それまでは、理論的な対立をもとに分派ができて、「われわれのは正しい仏教だが、お前たちのは非仏教だ。だから、同じ寺には住めない。出ていけ」と言っていたらしい。追い出されたのが一人ならいいが、集団で追い出されると、その人たちが新しい学派を作る。こうして、さまざまの学派が、すでにアショーカ王の時代にできていたらしい[1]。アショーカ王は教団分裂を防止しようと思い、教団に政治的な圧力をかけて[2]、布薩[3]を共にできさえすれば、たとえ理論的に対立していても、相手を非仏教だと決めつけて破門してはいけないことにした。
アショーカ王のブレーンは、どうも大衆部(だいしゅぶ)らしい。彼らは、「布薩を共にできないときは破門」という説をきわめて積極的に受け入れていて、それまでの「理論を共にできないときは破門」という考えを完全に捨てた。そのために、律を大幅に改変して、古い文章を徹底的に削除して、新しい考え方だけで統一した。南方上座部は、圧力に屈して不承不承アショーカ王の提案を受け入れて、律を一部改変した。しかし、大衆部のように積極的ではなかったので、古い文章もそのまま残して、そこに新しい文章を付け加えた。説一切有部(せついっさいうぶ)は、アショーカ王の圧力に反抗して、カシミールへ逃げた。したがって、律は改変されていない。
この「改革」の結果、布薩を共にできさえすれば、つまり、律の条文が同じでさえあれば、理論的にどんなに違っていても、同じ寺に住めることになった。そこで、やがて大乗仏教のような、原始仏教とはかけ離れた考え方も生まれてくることになったのだ[4]。
ここまでが、この本の内容だ。「布薩を共にできれば仏教」という考え方は、今でも生きている。逆に、布薩を共にできないと仏教ではない。南方上座部の僧は、日本の僧は比丘ではないという。なぜなら、彼らがタイやスリランカに旅行すると、ホテルに泊まるからだ。律には、在家の家に泊まることは禁止されている。僧は、僧院に泊まるか野宿するかしなければならない。上座部の僧も、野宿はかなわないので、ふつうは地域の僧院に泊まる。僧院に泊まると、現代でも、布薩に参加しなければならない。日本の僧は戒を守っていないので、布薩に参加すると、ただちに教団追放になる。ホテルに泊まっても僧院に泊まっても、どちらにしても駄目なのだ。
私は、仏教が生き残るためには、律を復興するしかないと思っている。そうして、全世界の教団が布薩を共にできる状況を作りさえすれば、どんなに理論上の違いがあっても、ひとつの教団としてやっていけるわけだ。われわれ在家だって、戒律をちゃんと守っている僧なら尊敬できるしね。
これは通説とは違っている。通説では、アショーカ王の時代までは教団は一味和合であったが、その時代に大衆部と上座部に分かれたことになっている。佐々木氏は、その説は説一切有部が作り出したものであって事実ではないことを、それとなく示唆される。南方上座部の伝承では、王は命令に従わない長老を処刑することさえしたようだ。ウポーサタ。月に2回おこなわれる儀式。地域の全比丘が集まって、律の条文を朗読して、違反がないかどうか確認する。これも通説と違っている。大乗仏教は、最初は在家の運動であったのが、後にその人たちが出家するようになったのだというのが現在の多数説なのだが、佐々木氏は、はじめから出家教団の中で大乗仏教がおこったと言われる。