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スレッドNo.759

破門と寛容(2)    野田俊作

破門と寛容(2)
2001年09月03日(月)

 先日、玄奘三蔵の伝記(慧立・彦宗著,長澤和俊訳『玄奘三蔵―西域・インド紀行』(講談社学術文庫))を読んだ。玄奘は、旅の途中で、さまざまの部派の僧院に泊まっているようだ。単身で(おそらく無一文で)出発したのだから、僧院に泊まって、在家信者の布施を受けることがなければ、到底インドまで旅をすることはできなかっただろう。だから、そのことは驚くべきことではないように思えるが、よく考えるとそうでもない。昨日の話題だった佐々木氏の議論と関係づけて、ふたつの点を指摘しておきたい。
 ひとつは、中国僧であった彼は、中国で一般的だった法蔵部の『四分律』に従っていたはずだが、法蔵部は小さな部派で、僧院の数はそう多くなかったと思われる。実際、彼は、説一切有部や大衆部の僧院にも泊まっているように読み取れる。つまり、部派が違っても、布薩を共にできたのだ。ということは、布薩で読み上げられて違反がないかどうか確認される戒の条文は、各派で共通だったということだ。佐々木氏もそう書かれている。部派の間には、法(経典)についての思想の対立だけでなく、律についての解釈の相違もあったのだが、それを戒の条文に反映させないように、各部派とも細心の注意を払っていたようだ。私は『四分律』とチベット語訳の『説一切有部律』とパーリ語の『南方上座部律』しか見たことがないが、たしかに戒の条文についてはきわめて似ている。
 もうひとつは、大乗仏教徒であっても、布薩を共にできさえすれば、上座仏教の僧院に泊まれたということだ。そういう僧院に泊まると、玄奘は喧嘩を売ったようで、なかなか凶暴な坊主だったことがわかる。そうして喧嘩を売っても、布薩を共にできるかぎり、追放されることはなかったようだ。
 こういう状態を復活できないものだろうか。日本の教団もいいかげん悔い改めて、律を守って暮らす気にはならないかな。ならないだろうな。



グレツキ
2001年09月04日(火)

 インターネットラジオで、グレツキという作曲家の『交響曲3番』の第2楽章を聞いて、とてもよかったので、CDを買った。ヘンリク・ミコヤイ・グレツキについてはまったく知らなかったのだが、1933年、ポーランドで生まれたので、いちおう現代作曲家だ。『交響曲3番』は、彼の代表作なのだそうだ。小さなオーケストラにソプラノのソロがついている。3楽章あるが、すべてlento(ゆっくりと)だ!

 歌詞は、第1楽章は中世の聖歌で、キリストの死を嘆くマリアの歌。

最愛の息子よ、選ばれた者よ
あなたの傷を母に分けておくれ。
息子よ、いつもお前を心に抱いて、
まごころをささげてきたこの母に、
語りかけておくれ、安心させておくれ。
今、お前は私のもとから行ってしまう、
私の人生の希望よ。
 (英訳から翻訳。以下同様)

 第2楽章は、なんと第2次大戦中、ゲシュタポの監獄の中の独房の壁に書かれていた、18歳のポーランド女性の詩。

泣かないで、お母さん、泣かないで。
もっとも清い天の女王さま、
私をいつまでも支えてください。
アヴェ・マリア

 そして、第3楽章は民謡で、戦争で息子を失った母の歌。

どこへ行ったの、
私のいとしい息子。
戦乱の中で、
ひどい敵に殺されてしまったのか。
 (中略)
もう二度と、
私の手はあの子に届かない。
この老いた目が
つぶれるほど泣いたとしても。
 (後略)

 詩も悲しいが、音楽も悲しい。こんな悲しい歌が書けるんだねえ。オーケストラは単調に2つの和音を繰り返す。ずっと低音が鳴り続ける。その上で、ソプラノが、単純だが、きわめて美しい旋律を歌う。すべてがあまりに単調なので、一度聴くと、呪いのように耳について離れない。
 無調で不協和音で、作曲家本人だけが喜んでいるような音楽は、1980年ごろから書かれなくなって、こういう、真にシリアスな音楽が書かれるようになったんだそうだ。私はちょっと時代遅れになっていたな。そういう作曲家たちの曲を聴いてみよう。



グレツキ(2)
2001年09月05日(水)

 昨日書いたグレツキの『交響曲2番』は、西ドイツの交響楽団に委嘱されて書かれた。それでもって、第2楽章の歌詞が、ゲシュタポの独房の壁に書いてあったポーランド女性の詩なんだ。これって、ちょっとすごいね。日本のオーケストラが中国人の作曲家に委嘱作品を頼んだら、歌詞が特高警察に拷問されて死んだ娘が書いた詩だった、というようなものだ。
 ヨーロッパの国々のお互い同士の近さは、日本のような島国にいると、ちょっと想像がつかない。距離的にも近いが、国境を陸路で越えることができるので、隣国の人が簡単に移住してくる。どの国も、昔から人種混交国家だ。同じ国の中で、違った人種同士が昔から憎しみあっている。昔から憎しみの言葉をかけあっているので、交響曲の歌詞ぐらいでは、そんなにこたえないのかもしれない。
 グレツキは、別にドイツ人にイヤミをいうつもりであんな歌詞を選んだわけではないだろう。女の悲しみを通じて、戦争や拷問や虐殺のない、みんなが融和して暮らせる世界への希望を歌ったのだと思う。それはドイツ人もわかっているだろう。けれど、わかっていても、つらいんじゃないかな。
 ドイツのある心理学雑誌に、ドイツ人の著者がユダヤ人の老人に向かって、「もういいかげん、昔のことは忘れたらどうですか?」と言ったところ、老人は、「忘れてしまうと、許すことができなくなる」と答えた、と書いてあった。日本人のように、「水に流して」忘れてしまう国民とは違うんだ。いつまでも覚えていて、思い出すたびに、悲しい目をして相手を見つめて、それからため息をついて許すんだ。

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