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スレッドNo.777

運動会の日の雨    野田俊作

運動会の日の雨
2001年09月30日(日)

 大分県別府市に来ている。講演に来たのだが、朝からひどい雨だ。主催者に「雨で残念ですね」と言うと、「いいえ、雨で喜んでいます。雨乞いしていたんですよ」と言う。ああ、そうか、運動会だな。
 私の講演の聴衆は、お母さん方と学校の先生が多い。だから、運動会があると来られない。雨が降って運動会が中止になると、来る人が増えるのだ。30人ほどの事前申し込みしかなかったのだが、蓋を開けてみると70人近く来てくださった。子どもたちにはちょっと申し訳なかったけれど、たくさんの方に聞いていただけて、喜んでいる。
 考えてみると、秋の運動会シーズンには、お呼びがあまりかからない。農村部だと、田植えと稲刈りのころも駄目だ。このごろは兼業農家がほとんどなので、休日に農作業をするようだ。沖縄県は夏場は台風の恐れがあってお呼びがないし、雪国は積雪期にはお呼びがない。なんとなく年間リズムがあるのだ。
 ところで、別府市コミュニティ・センターというところで話をしたのだが、すばらしい施設だ。むかしの芝居小屋をかたどった建物で、外側だけではなく、内部も芝居小屋そのままだ。桟敷席があって花道があって、歌舞伎の浮世絵の中にいるようだ。もちろん、近代的な設備が整っているが、表からは見えないようにしてある。こういうところで、劇や音楽を鑑賞してみたいなと思う。
 箱物行政が作った文化会館などは、味も素っ気もない無機的な建物が多い。せっかく高いお金を使って作るのだから、もうちょっとまともなものを作ってもらいたいものだ。文化会館だけじゃなくて、役所関係の建物がすべて品(ひん)がない。民間の建物のモデルになるような、日本の自然に溶け込んだナチュラルな建物を、まず行政が建てないといけないと思う。20世紀には、自然と伝統をあまりにも破壊しすぎた。21世紀は、いいものをいい形で保存する時代にしないとね。



仲秋の名月
2001年10月01日(月)

 今日は旧暦八月十五夜だ。大阪は昼間は曇っていたが、夕方から晴れてきて、パートナーさんとウォーキングに出かけた午後十時前はすっかり晴れ渡っていた。満月は青く南天にかかっていた。北天にはわずかに雲があるが、南天は虚空だけしかなく、月は小さく明るかった。

 歩いているうちに、万葉集の中にある

夕闇は道たづたづし月待ちて行かせわが背子そのまにも見む

 という歌を思い出した。女の家へ男が通ってきて、夕方になって去ろうとする。夜にやってくるんじゃないんだ。朝から来て夕方帰るのか、それとも前の日から来ていたのか。たぶん、前の晩に来て、「居続け」なんだろうな。ともあれ、女は、「夕闇は道がたどたどしいでしょうから、月が出るのを待ってお帰りなさい、いとしいお方。その間も私はあなたのことを見ていましょう」と歌う。なかなか濃厚な語調の歌だ。
 色っぽい文学だけじゃなくて、道元の『正法眼蔵』の中の「諸法実相」の巻の、中国に留学していた時代の、師匠の如浄のある夜の説法のことを回顧している場面を思い出していた。その締めくくりに、

 それよりこのかた、日本寛元元年癸卯(きぼう)にいたるに、終始一十八年、すみやかに風光のなかにすぎぬ。天童よりこのやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の実相なる、身心骨髄に銘じきたれり。かのときの普説入道は、衆家おほくわすれがたしと思へり。この夜は、微月わずかに楼閣よりもりきたり、杜鵑(ほととぎす)しきりになくといへども、静閑の夜なりき。

 と書いてある。季節は、前のほうに「春三月」と書いてあるので、新暦だと五月ごろだし、月も満月ではないようだ。だから、今の月とは違っている。しかし、美しい文章なので、月を見ると出てきてしまう。
 構成主義(constructivism)風に言うと、そういう文章が私の見え方を決めているので、言語が先にあって現象が後からある。きっとそうだと思う。月が見えて詩が出てきているのではなくて、詩がまずあって、それが月の見え方を決めている。実感としてそう思う。
 先日、白川静・渡部昇一『知の愉しみ知の力』(致知出版社)という対談を読んだ。その中で、漢文教育の必要性が説かれている。

 白川 中国の詩文というようなものは、若い文学者の作品と違って一種の老熟性があります。(中略)これはいわゆる成人の学、大人の文学と言っていいでしょうな。その意味では、漢文は適齢になったならばなるべく早い機会に接したほうがいい。そうすれば自分が大人の世界に入っていけるわけです。それがないと、いつまでも脱皮できずに甘えが残ってしまう。(中略)大人になるには漢文の教育が一番です。(pp.140-141)

 ここで白川先生がおっしゃるのも、実はそういうことで、漢籍を読んでいるのと読んでいないのとで、世界の見え方が違うのだ。さいわい、私の父は漢籍を読む人で、家に明治書院の「新釈漢文大系」だの岩波書店の「中国詩人選集」だのがあって、中学校上級生のころからそういうのを読んでいた。最終的に、私は中国思想よりも仏教を選んだが、それはそれとして、「大人の文学」を若いころに読んだことは、漢文的言語の獲得を通して、世界の見え方を変えていると思う。

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