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スレッドNo.83

論語でジャーナル

13,陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問いて曰く、子もまた異聞(いぶん)あるか。対(こた)えて曰く、未だし。嘗て独り立てり。鯉(り)趨(はし)りて庭を過ぐ。曰く、詩を学びたるか。対えて曰く、未だし。詩を学ばずんば、以て言うこと無し。鯉退きて詩を学ぶ。他日、また独り立てり。鯉趨りて庭を過ぐ。曰く、礼を学びたるか。対えて曰く、未だし。礼を学ばずんば、以て立つこと無し。鯉退きて礼を学ぶ。この二者を聞けり。陳亢退きて喜びて曰く、一を問いて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、また君子のその子(こ)を遠ざくるを聞くなり。

 陳亢が(孔子の子の)伯魚にたずねた。「あなたは、父上から何か特別のことを教えられましたか?」と聞いた。伯魚はかしこまって答えた。「いいえ、別に。いつか父上が座敷に一人で立たれていたとき、私が中庭を小走りで通り過ぎようとしますと、父は呼び止めて、申しました。「詩を学んだか」と。「いいえ、まだです」と答えると、「詩を学ばなければ適切にものが言えない」と言われました。で、私は自分の部屋へ帰って詩を学びました。別の日に、父がまた一人で座敷に立たたれている前を通り過ぎますと、「礼を学んだか」と言いました。「いいえ、まだです」と答えますと、「礼を学ばなければ人格の形成ができない」と言いました。私は引き下がってから礼を学びました。この二つのことを父に教えられました」。陳亢は家へ帰ると喜んで言った。「今日は一つのことを質問して、三つのことを得た。詩のことを聞き、礼のことを聞き、また君子が自分の子どもを遠ざけて(甘やかさないで)教えられたことを聞かせてもらった」。

※浩→孔子の子どもである伯魚が、陳亢の質問に答えて、父親との関係・言葉のやりとりを回想している場面です。伯魚は孔子から特別な教えを授かったわけではなかったが、君子として必要不可欠な「詩経・礼節」を自然なやりとりの中で学び取っていたのです。このことを聞くことのできた陳亢は、「1つの質問から3つの大切な教えを得ることができた」と喜びました。
 伯魚(孔子の息子・孔鯉)は前484年、孔子69歳のとき死亡して、孔子を悲しませ、老年の孔子の孤独感はますます深まったと言われます。
 ところで、「君子は自分の子を遠ざけて教える」というのは、どういうことでしょうか?このことの説明としては、『孟子』に有名な文があります。「君子の子(こ)に教えざるは何ゆえぞや」という公孫丑の問いに、孟子は答えています。教育は正しさをもってしなければならない。親の私生活をよく知っている子どもは、「お父さんは正義正義と子には押しつけながら、自分は正義ばかりで生きていないじゃないか」と言うと、親子憎み合うことになる。だから、「古(いにしえ)は子を易(かえ)て之を教う」と、お互いの子を取り替えて教育した、と。孔子も、わが子は教えないというタテマエを守りながら、片言隻句(へんげんせきく)でよく子に教えていて、さすがだと貝塚先生は述べられています。
親はわが子には甘いか辛すぎるかで、偏りがちです。それにしても、子が親に先立つことほど不幸なことはないです。野田先生も思春期の愛息さんを亡くされました。息子さんのご存命中のエピソードをいくつかお聞きしましたが、お亡くなりになった詳しいご事情は黙して語られませんでした。今は、お浄土で再開されて、親子の楽しい会話がなされていることでしょう。
 歌舞伎には、忠義のためにわが子を犠牲にするお話があります。有名な「伽羅先代萩」では若君の乳母・政岡はわが子・千松に毒入り饅頭を食べさせて若君を守ります。「菅原伝授手習鑑」では三つ子の兄弟の長子・松王は菅原道真の一子・菅秀才が身分を隠して預けられている寺子屋へわが子・小太郎を寺入りさせて、やはり管秀才の身代わりにします。あれはお芝居で、観ている一時(いっとき)涙すればいいのですが、現実となるとそうはいきません。少し前では、戦時中にわが子の出征を「万歳!」と見送った親の心と重なります。「名誉の戦死」などという美句で自分をなだめたのでしょうか。悲しみを表に出すと、当時は「非国民」と責められました。ああいう「人命軽視」の世の中には二度としたくないです。

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