論語でジャーナル
3,子曰く、唯(ただ)上知(じょうち)と下愚(げぐ)とは移らず。
先生が言われた。「(多くの人は学習・努力によって変われるが)ただ最高の知者と最低の愚者は変わることがない」。
※浩→人間は習慣によって、いかようにも変化すると前条で言いましたが、例外として、変化しない人間がいると、追加しています。
「上知」(最上の知者)はどんな境遇にいても堕落することはない。「下愚」(最下の愚者)は、習慣・教育によっても向上しない。この二種類の人間は移動しない。人間の中には、先天的に性質を固定したものとして、絶対の善人と絶対の悪人が存在するという、何か決定論的な響きがあり、後代の人間論に波紋を生む、と吉川先生。「上知」は儒家がのちに至るまでずっと主張し続けています。でも、「下愚」の存在は必ずしも主張され続けていないです。次の時代に孟子は、人間の可能性を強調して、「人はみな堯舜となるべし」と言い、性善説の立場です。この孟子の主張が朱子によって一層強調されるようで、朱子はここの解釈に苦慮したであろうと、やはり吉川先生は述べられます。私個人は、「絶対の悪人」の存在を認めたくはないですが、昨今の世の中の現実を見るにつけ、その信念がぐらつきます。地球そのものが危機的状態なのに、世界の各地の戦争・紛争、大国の核兵器競争、大国の覇権主義、小さい規模では身近なところで起こるさまざまな犯罪・迷惑行為。職場でのパワハラ、セクハラ、学校でのいじめ、ネットでの誹謗中傷の多発…。アドラー心理学の「共同体感覚」の徹底的欠如。アドラーの時代にはまだ「人類の進歩」を信じることができた人だと、野田先生がおっしゃっていました。今はとうてい無理のようです。そもそも地球の寿命はそう長くないかもしれません。そうだとすれば、私たちはできる限りの延命措置をするしかないのに、延命どころか、むしろ短縮に加担しているのが現状です。災害のあとでよく言われます。「分け合えば余る。奪い合うから足りなくなる」。けだし名言です。
恥ずかしながら、わが岡山県は交通マナーが最悪です。信号のない横断歩道で歩行者が待っていても、止まってくれる車はとても少ないです。合図を出さないで右左折・進路変更します。「なぜ出さないか?」聞くと、「初心者みたいでカッコ悪い」んだそうです。「アホか!」と叫びたくなるほどの「下愚」です。それでも、ときどき横断歩道でチャリを降りて車の隙間を待っていると、手招きしてくれて「通してくれるドライバーがいます」。不思議なことにそれはほとんど男性です。