論語でジャーナル
5,公山弗擾(こうざんふつじょう)、費を以て畔(そむ)く。招(よ)ぶ。子往(ゆ)かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして曰く、之(ゆ)くこと末(な)ければ已(や)む。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之(ゆ)かんや。子曰く、夫(そ)れ我を招ぶ者は豈(あ)に徒(いたずら)ならんや。如(も)し我を用うる者あらば、吾はそれ東周を為さんか。
公山弗擾が費を拠点として叛逆を企て、孔子を招いた。先生はこれに応じられようとした。子路はこのことに不服をとなえて申し上げた。「どこへも行くところがないとすれば、それまでのことです。わざわざ謀反人の公山のところへ行くことはありますまい」。先生が言われた。「そもそも私を招聘する者、それはただ漠然と無駄に招聘するのであろうか。理由があっての招聘であり、私への期待をもっての招聘である。もしも私を採用してくれる人があったら、自分はその国をいわば東周にしてみせたいのだ」。
※浩→魯公に反旗を翻した公山弗擾から孔子が招かれたというのが歴史的事実であるか否かははっきりしないそうですが、ここでは、公山の申し出に孔子が応諾しようとしたということになっています。
「公山」は名は弗擾(ふつじょう)、陽虎と同じく季氏の家臣でしたが、陽虎と同じく季氏に不満を抱き、陽虎が謀反した孔子50歳のとき、その領地・費を根拠にして謀反を起こしました。そうして孔子を招聘したのです。孔子はそれに応じようとしたら、直情径行の士・子路は不機嫌になり、謀反人のところへ行くなんてとんでもないと、制止しました。
常識では「公山」は下剋上の謀反人です。それなのになぜ孔子はその招聘に応じようとしたのでしょう?司馬遷の解説では、これは孔子がいよいよ政治家としての実践に入る直前の事件であり、政治的実践の出発点を、常識では謀反人とする人物への協力に求めようとしたのであろうとあります。孔子は、自分を使ってくれる者があれば、東周のように「周」を復興してみせると言いました。
ところで、「周」は初め、陝西省の西安に都を置いていましたが、幽王が遊牧民の犬戎に滅ぼされたため、その子の平王が東遷して洛陽に都を立てて周王朝を復興しました。幽王以前の周を「西周」と言い、平王以後を「東周」と呼びます。
実際には子路の意見に従って行かなかったようですが、公山の勧めにかなり乗り気であったことは、2つあとの条でわかります。
孔子は50歳くらいで、まだ仕官の道が不安定でした。私はちょうどそのころ、アドラー心理学のカウンセラーになれて、人生が一変しました。わりとシャイで(自分でそう思っているだけ?)、大勢の人前で講演したりすることは考えられなかったはずが、それ以後、在職中も退職後も幼稚園から高校、あるいは企業に招かれて、講演活動をさせていただきました(HPに一覧あり)。そういうとき、思えば、必ず私を招いてくださった方がいらっしゃいました。中でも、当時総社市内の中学校の先生だった平○○○子先生、吉備中学校の養護教諭・茅○○○子先生、清輝小学校の養護教諭・小○先生、幼稚園の園長さん・片○先生……。ありがとうございました。どなたも「公山」のような“謀反人”ではありませんから、私は堂々とお招きに応じることができました。コロナ以後、講演以来はぱったり途絶えてはいますが、私が後期高齢者になったことも関係しているのかもしれません。それでも唯一、津山工業高校のスクールカウンセラーを務めることができていて、まだボケるわけにはいきません。