論語でジャーナル
6,子張、仁を孔子に問う。孔子曰く、能(よ)く五つの者を天下に行なうを仁と為す。これを請い問う。曰く、恭・寛・信・敏・恵なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得(え)、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以て人を使うに足る。
子張が、孔子に仁について質問した。孔子が言われた。「五つのことを天下で実行できれば仁と言えるね」。子張はさらにその五つのことは何かと質問した。先生は言われた。「それは、恭・寛・信・敏・恵である。恭つまり礼儀正しいと他人に侮られない。寛つまり寛容であれば人望が集まる。信つまり誠実であれば他人から信頼される。敏つまり敏捷であれば仕事がたくさんできる。恵つまり恵深いと人を上手く使うことができる」。
※浩→こういう図式的な言語は、『論語』の前半と似ていないと言われます。朱子の「問答集」に「“六言六蔽(へい)”、“五美”などの説は、意味はそのとおりだが、皆聖人の常時の言語と一様ならず」とあるそうです。上論と下論の間に差異があると、最もはっきり言うのは伊藤仁斎で、朱子の意見の影響だろうと、吉川先生。
子どもたちに教えるにはわかりやすいでしょう。「礼儀正しくありたい」「寛容でいたい」「誠実でいたい」「敏捷でいたい」「恵み深くいたい」と私も思います。「愛」についておさらいしておきます。
愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える(コリント人への手紙1-13)。
これを心がけると、うかつに「愛してます」とは言えなくなります。人を愛するというのは、よほどの覚悟がいることだとわかります。
昔、在職中に、ある生徒から求められたことをやさしくきっぱり断ったことがあります。賢い生徒くんは、「じゃあ、先生、僕たちへの愛はなくなったんですか?」。これにはまいりました。生徒愛に溢れると自負していた私は、結局、受け入れました。何かというと、当時から私はウエイトトレーニングをしていて、ガタイがムキムキでした。生徒が「胸をピクピクさせるのを見せてくれ」と言うのです。「見せるためにやっていません」と断ったら、こう言われたのです。仕方なく、上半身タンクトップ姿で見せてあげました。拍手喝采ではありました。“見栄の大森”はその当時から存在していました。今は昔のお話ですが、トレーニングは現在も続けています。週3~4回は通っています。