大江戸捜査網について
東京12チャンネル及びテレビ東京で、長期にわたって放映されたこの時代劇では、今の秘密警察にあたる隠密同心が、「強気を挫き弱きを助ける」で有名だけれども、ここの歴史の舞台は、松平定信の「寛政の改革」です。
江戸時代の人気の時代劇には、元禄時代以降行き詰った財政を立て直すための三大改革が舞台になりました。
参考までに、「暴れん坊将軍」「大岡越前」は、「享保の改革」で、「遠山の金さん」は、「天保の改革」です。
江戸時代の改革を述べると長文になってきりがないので、「寛政の改革」について述べます。
天命の大飢饉で、打ちこわしが多発して田沼意次が失脚し、徳川家斉の老中の松平定信が起こした改革です。
囲い米、米の備蓄令、農民里帰り令、浮浪人を集めて職人訓練をした人足寄場、不測の事態に備えた七分積金がありました。
それだけでなく、寛政異学の禁という朱子学以外の学問を禁止する思想統制もありました。
1787年から1793年の6年間に行われたこの改革は、役人や庶民、学問の統制で、反発者を多く出し、家斉の信頼を失ったことにより定信は失脚したことにより、失敗に終わりました。
松平定信は、倹約令を出して、贅沢三昧をしている商人達の取締りをするだけでなく、多額の借金を抱えた武士達の借金の帳消しと高利貸しの取り締まりと借金の利率を下げる政策を行ってきました。
この政策もあって、幕府の政治の引き締めと財政健全化は、一時的に成功はしたものの前述のような反発が強くなったことで、定信が幕政から降りなければいけないことになりました。
それで、このような川柳も生まれました。
白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき
白川藩主の松平定信の行き過ぎた統制政治は、かなり窮屈すぎるので、金持ちや商人に甘い、田沼意次の時代が懐かしくなってしまったという皮肉をこめたものでした。
先ほど、一部誤字がありまして住みませんでした。寛政の改革で手腕を握ることになりました松平定信について、更に補足をします。彼は、あの「享保の改革」でお馴染みの徳川吉宗の孫で、白河(今の福島県白河市)の藩主を当時していました。
1782年から1788年にこの飢饉があったときに、浅間山の噴火による火山灰の降灰、冷害で農作物の不作が相次ぎ大量の餓死者をだしました。
それで、その当時、白河藩主の松平定信は、米とか雑穀とか食料に余裕のある越後および会津藩、江戸大阪から買い集めて備蓄をし、町民に対して倹約をさせました。それだけでなく、裕福な人から寄付を募り、農民に対して開墾を奨励した。
これが功を奏してか、白河藩ではこの飢饉による餓死者が一人も出ませんでした。従って、松平定信がこの手腕をかわれて、老中に抜擢され、あの「寛政の改革」につながりました。
主に、印象に残ったのは松平定信が寛政の改革で、棄捐令(借金の帳消)、倹約令を出した1789年の時と思います。
この頃、イギリスから独立したアメリカでは、ジョージ・ワシントンが初代大統領になり、フランスでは王政に対する民衆の革命が起きたことです。
一説によるとフランス革命は浅間山の噴火から起きたといわれているが、実際にはアイスランドのラソ火山の噴火によるもので、この頃は、天明の大飢饉とも重なった時期です。
世界の火山プレートが動き、異常気象が農作物の不作を招き、世界の民衆の反乱が起きた時期でもありました。
それで、フランスの場合、民衆の怒りの爆発により、ルイ16世とその王妃マリー・アントワネットが、ギロチン台にかけられて処刑されました。
やがて、アメリカ、ヨーロッパと世界が大きく動いた時に、鎖国していた江戸時代の日本も開国を迫られ、倒幕、明治維新へと時代は大きく動いていきました。
特に江戸時代にあった、治安と情報収集のための密偵の類を膨らませたドラマがこの「大江戸捜査網」をふくめ、たくさんありました。海外でも知名度が高い忍者は、フィクションエンターティンメントの最たるものかもしれません。物語上で特筆すべき当時の事実には、ナレーションによる説明が付加されることがありました。
NHKの人気番組「ブラタモリ」でも、江戸から明治にかけての政治家や民間人の開拓や治水など多くの努力の過程を振り返ることが多いですが、先人たちの偉業を知ることにより、現在の私たちの生活があるということを考えなければならないと思う次第です。
(誤)ラソ火山(アフリカのラソ島になってしまう)、それで、正式にはアイスランドの火山は、ラキ火山です。1783年の日本は天明3年で、岩木山と浅間山が噴火しました。
前述で、天明の飢饉を述べましたが、ラキ火山の噴火は、アイスランドをはじめ、ヨーロッパ中多くの死者を出し、農作物や家畜にも甚大な被害をもたらしました。
フランスでは、1785年から、農作物や家畜の被害で食料価格が高騰し、市民の暮らしが逼迫するようになりました。
1789年になると、市民達は政治犯収容施設であるバスティーユ牢獄を襲い、1791年に、ルイ16世とマリー・アントワネットがパリ脱出を図るも、1792年に市民軍に回り込まれて幽閉されてしまいます。家族そろってのつかの間の生活も、1793年で終わりを告げ、ルイ16世は、革命裁判にかけられました。
それで、国王は1月にギロチン台で処刑され、7月には子供達とも引き離され、8月に王妃はコンシェルジュリー牢獄に収容された後、10月にギロチン台で処刑されました。
この時の王妃は、昔のような華やかさはなく、短い髪の毛に白い囚人服で、手を後ろに縛られた状態でした。
マリー・アントワネットというとオーストリアから、政略結婚で玉の輿をしたことで有名です。
池田理代子先生の少女マンガの「ベルサイユのばら」にも登場し、アニメだけでなく、宝塚歌劇でも何度も上演され、この劇的な革命にもかかわらず、今でも、多くのファンから愛されていることを忘れてはなりません。