けさ夢にのこりし星は星月夜
夜眠るときにベッドに横になった途端、頭のなかがくらりと回る。突発性めまいは耳の石を戻す運動で治ったが、この「くらり」は一回で終わるので気にしなかったが、昨日の白昼のめまいはこれではなかったのかと思い当たった。昼間自転車で走っていたときにこれが起こればさすがに驚く。もし車の多いところでこれが起こったらただではすむまい。雨で視野が狭くなり緊張して起こったのかも知れない。雨合羽を見通しのいいものに変える必要がある。バイクはもう乗れないなあと思ったのだろう。ヤマハの大型バイクを買って中央フリーウェイを走って会社へゆく夢を見た。バイクを裏の駐車場に停めて、ここは大洗の工場の自然に似ているなあと会社の入口を覗いたら応接間に社長のEと営業のMがいて、顔を合わせるのも面倒だとバイクの所にもどったら、バイクが見当たらない。時間は10時でバイクをどこに停めたのか盗まれたのか探しているうちに社長のEは数年前にWに譲って他の会社の顧問になっているはずで、営業のMも辞めて会社を興しているはずなのに何故いるのだろうかと不思議に思っているうちに、バイクは東北大震災を機に65歳で免許証を返しているので筑波サーキットと菅生サーキットの走行許可証しかないからバイクは買えないはずだと気づいた。バイクを買ったというのは夢だったのだ。しかし、バイクを置いた場所の草いきれとか日差しをよく覚えていて夢にしてはなまなまし過ぎるが時計は11時を指しているので夢とうつつを一時間うろついていたことになる。と、ドアのイヤホンが鳴って出てみると、郵便局からの書留配達だった。それはETCの更新カードだった。免許証は失効したが、ETCの方は失効されずに2025年までの延長が記されていた。偶然とはいえ、不思議に夢と現実が照応した出来事だった。
わたくしは若い頃、夢が現実に劣らずリアリティを持っているのは夢の中にも真実があるからだろうと毎朝「記夢誌」を付けていた。毎日誰もが夢を何回も見る。体が寝ている時に眼球が動くのは夢を見ているからである。ラピッド・アイ・ムーブメントREMといいREM睡眠と呼ばれ、これを疎外すると人間は発狂に至ることもある。夢は欲望や懺悔のはけ口でもある。慣れると結構長く夢を記せるようになる。このまま行けば小説が書けるなと面白がっているうちに、厭なものを見ているような気分になった。「太陽と死は直視出来ない」と言ったのはラ・ロシュフーコーだが、「真実」も直視出来ないのである。普通の人々はここまで自分自身の真実を直視出来ない。直視し続ければ発狂する。
しかし、そこまで自分を凝視してしまうと、どこかに踏み止まる足場が必要になる。
それはささいだが、毎日の平凡な日常の素朴で誠実な関係を大切にすることしかないのではないだろうかというのがわたくしの今の心境である。人間はひとりでは生きてゆけない。人間は人の間と書いて中国では世間と同じ意味を持つ。フランスの哲学者メルロ・ポンティはサン=テグジュペリの『戦う操縦士』の「人間は関係の結節点にほかならない。関係こそが重要なのだ」と『知覚の現象学』の序文の最後で述べている。序文しかフランス語の原書を読む力がなかったので、あとは翻訳で読んだが。この言葉は忘れられない。十代のわたくしは関係の間にその人間の真実があると読んだ。関係の暴力性に対してどこまであるがままに受け入れられるかにすべてはかかっている。暴力性とは諍いとか戦争と云った暴力だけではない。男女間の性もまた暴力性であるということだ。
「私は人間である。人間に関わることなら何でも自分に無縁であるとは思わない(Homo sum, humani nil a me alienum puto)」(テレンティウス『自虐者』)。
あるがままを受け入れ合うことほど、難しく、また親切なことはないとわたくしは思うが、もう余命いくばくもないからねえ。(*^▽^*)ゞ。
