立春やぷすんとPC御臨終
窓の外でぴしぴし音がするので雨にしては音が固いと思ったら霙だった。道理で寒いわけだ。昨日は最高6℃で最低は2℃と一昨日よりも10℃下がって北風もあったが今日は霙で明日明後日は雪とか。雪が積もると自転車はお手上げなのでバスや電車を乗り継いで客先に行かねばならず厄介極まる。積もると雪の歩き方に慣れていないので足首くじくと自転車も難儀するし、ヘルパーには雪は大敵である。
9年ぶりで句会や吟行に参加するので、俳人モードになるために昔の「多作多捨」「多読多憶」や「定点観測」を思い出そうとしたが、9年のブランクは大きく、先ずは兼題から片付けようと「大型俳句/俳句関連文書データベース検索エンジン」を探して、ツールバーに固定して、今回の兼題を「俳句例句データベース(季語以外による分類)」で検索すると129句の先人の例句をエクセルに取り込んで、自分がこれはと感じた秀句は緑、佳句は黄、句は凡句だが措辞に新しさや工夫があれば措辞のみ赤字にして類想類句の句は詠まないという戒めとする。兼題の場合は俳人の「目の付け所」が自分とマッチすればそれを参考に自分のイメージを膨らませて推敲を繰り返す。誰もが見ているが誰もが見落としている些細な「ずれ」が俳句ではオリジナリティとなる。俳句は世界で一番地味で幸せの目線が低い文藝だから、俺が俺がのが(我欲)を捨てておかげおかげのげ(解脱)で暮らす平身低頭の目からしか見えない世界が俳句の立ち位置だから文学的にはゴーリキーの「どん底」で哲学的にはニーチェの「病者の光学」だが、上からものごとを観たがる連中には見えない、繰り返しに足るものしか残らない日常の素朴な誠実さがある。
あとは写生句の世界だが、これは定点観測でも旅行でもいいが、ただ見たまま聞いたままではなく、それらの見聞を自分の血肉とする言葉との推敲が大切で、二時間吟行に費やしたら二時間は推敲に費やし、また翌日推敲を重ねてゆく自分の感性を研ぎ澄ます過程となり、自分の言葉に置き換える自分のゾーンに入る作業となる。これが一番難しく一番楽しい時間で「自分言いたいことだけを言う」と「自分の言いたいことは言わずに季語に託す」という終わりなき往復作業となる。
で、根を詰めると疲れるので、わたくしは料理を作ったり、音楽を聴いたりしてのんびりする。今日はちぢみ菠薐草の塩豚炒めと菜の花のひきわり納豆和えを作った。3分間茹でた菜の花を冷水で色を鮮やかにし、ひきわり納豆を辛子とマヨネーズと醤油で混ぜ混ぜして菜の花にかけて食すのである。スープはちぢみ菠薐草のスープで、雪でつぶされてぺちゃんこになった冬菠薐草の出汁がふくよかで絶品なのである。
と、満足して吉村妃鞠ちゃんのヴァイオリン協奏曲を聴いて涙を流していたらパソコンがぷすんと鳴って御臨終。まいったなあ。NECの同じ大型画面のパソコンの御臨終と同じで、電源が入れば自動バックアップなのでファイルは救えるが、電源が全く入らないとお手あげで、もうNECに見切りをつけるしかないなあ。小型のNEC一台しかもうバックアップがないので、兼題と吟行俳句は記憶しているうちに書かないとダミだなあ。
Himariちゃんの名演を聴いてもらおう。これで小学生とは。ヴァイオリンが感情を持っているとしか思えない。ストラディバリウスという名器を弾いているが、彼女が弾いてこそだろう。
HIMARI | Curtis Recital 11years old ヴィエニャフスキ / ヴァイオリン協奏曲 第1番(2022.10.28)
