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スレッドNo.883

松屋裏通り銀座の春の雨

昨日は17時から銀座のゆう画廊で句画展の展示で河口聖画伯のお手伝い。五階は事務室とトイレがある分少し狭いので第二句集『印象』から十点、6階は天井も高く広いので第一句集『最後の走者』から一点、第三句集『風影』から九点、第四句集『光源』から一点で計十一点を展示という聖さんの案で、わたくしが俳句は季感が大事なので季節の巡る順と画のモチーフや色彩のバランスを考えて展示の順番を担当した。要するに俳句と絵画の両方に精通していないと句画展の構成は出来ないのでわたくしの出番というわけだ。

ところが、梱包を解いて愕然、二箱のうち一箱が運送中の衝撃で裏から四隅を螺子止めしてある画が全部外れて、ひとつは短冊が破れており、急遽聖さんと修復する羽目になり、これが時間がかかり終わったのは終電で、ふたりとも駅からの終バスは終わっており、タクシー帰宅である。月曜までに画と短冊の書き直しが必要になった。多分、月曜12時からの開始までには間に合うと思うがふたりともクタクタになったアクシデントだった。

ただし、前回が画と短冊がひとつの額に入る展示が間に合わず、裸の展示が半分以上あったのに対して今回は全二十一点がすべて額に納まっており、句画展としては最高水準の出来栄えだと思う。句と画のコラボレーションは無いわけではないが、写真俳句のような俳句と画や写真が付き過ぎというかお互いが説明し合ってくどいというか、相即不離であり、お互いが独立していながら照応し合うという不即不離の面白みに欠ける嫌いがある。その点、澤好摩の俳句は季語に凭れ掛からない独自の俳句であり、河口聖の抽象画は個展を百回以上国内外で開催する独自の画であり、二人の世界は俳句と画が照応しあう瞬間に立ち会えるので、不思議だが美しいと魅入られる作品が生まれる。判り易さと難解さには組しないオリジナリティの美しさと言えよう。

実は俳人澤好摩と画家河口聖と猫髭黒子の三人は「うわばみ会」を結成しているのかというほどの呑み友であり、澤さんは俳句の話で聖さんは画の話で侃侃諤諤やりあうにも関わらず意気投合している不思議な関係で、わたくしは仲裁もせずに黙って呑んでるので、話が縺れると「おい猫髭、いい加減仲裁に入れ」とふたりでわたくしを見るので、まあ、わたくしは緩和剤のようなものか。というのはしたり顔で他のひとが口を挟むと挟んだ方がぎうぎうぐっちょんぐっちょん絡まれて地獄に落ちるので、疲れるまでやらせればいいので、ふたりともその分野の達人で半世紀以上の同伴者だから言いたいことを言えば後に残らずさっぱりしているからそれでいいのである。俳句の権威と画の権威だから、普通のレベルでは太刀打ちできない。わたくしは達人ではなく、遊泳、疾走、跳躍、飛翔、鳴き声、穴掘りなど多芸だがどれも一流の能力ではない器用貧乏な「おけらの七つ芸」だから膨大な雑識のおかげで呑んでも気楽なのだろう。いつも思うが三人とも酒が呑みたくなる顔をしているのである。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年04月09日 19:42)

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