振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ
✱映画俳優として・・決意した時期✱ #2018.5.18
今日は、少し真面目に橋蔵さまのまわりで変化があった時のお話を少し。
「任侠東海道」クランクアップ後、1957年暮れから橋蔵さま身辺にちょっとした事が起こり始めました。そして、東映と契約はしていましたが、まだ橋蔵さまの心の内には、歌舞伎への未練もあったのでしょう・・橋蔵さまが本当に映画俳優として・・と決心をかためた時でもあったようです。
橋蔵さまは、ひばりさんとは同じプロダクションに所属し、福島社長企画でトミイ・マミイコンビとして組むことが多くあったわけです。ところが、橋蔵さまの人気が上昇してきたために、東映側は、お二人の作品に、いつまでもひばりさん主演、橋蔵さま共演にするわけには・・・との声が出て来たようです。そのためひと悶着あったようで、ひばりさんが、長年所属した新芸術プロダクションから1958年4月に独立するということになります。今までのように同じ所属であったお二人の作品を福島さんがプロデュースすることが出来なくなりました。
ちょうど「任侠東海道」の撮影が終わった頃、福島社長は12月いっぱいで新芸プロを退社することになっていたようです。
福島社長は、12月半ばに京都に橋蔵さまを訪ねたのですが、その際そのことは言えなかったようです。なぜなら、橋蔵さまから「私に良い脚本を早く考えてくれなければ困りますよ。それがあなたの責任じゃありませんか」と突然言われたそうで・・ひばりさんの独立や会社の整理仕事に追われ、橋蔵さまのことはおろそかになっていたと、福島社長は言っていました。
12月半ばには、マキノ光雄さんが亡くなられます。
この時期に、橋蔵さまにも、これから俳優としての決意がみられたのでした。(後援会誌から)
「舞台にあった頃は、映画出演のことなど夢にも思っていませんでしたが、たってのおすすめで、ともかく1、2本出演させていただき、また舞台に戻ろうと、デビューの頃はそんな気持ちで、映画俳優になろうなどとは毛頭考えておりませんでした。それが、種々の事情で続け出演させていただくようになり、このように皆様からご支援を頂くに至っては、私としまして、一映画俳優として身をたてる決心をかためた次第でございます。
これまでは、なるたけ数多くの映画に出演し、早く映画に慣れることと、映画俳優しとての橋蔵の存在を認めていただくために、どんな役でも体当たりでぶつかってまいりました。
しかし、ここに映画俳優としての3年目を迎えるにあたり、私自身といたしましても、何か新しい方針を打ち立てねばならぬと、いささか焦燥めいたものを感じている次第です。今後の出演作品の吟味、その後の内面的な表現、つまり、皆様が見て胸に応えるような内容のあるもの・・といって、急に文芸ものをと言うのではなく、誰にでも容易にわかる作品でも、シンのある役を得て、大いに勉強していきたい、とそんな気持ちでいっぱいなのです」
3年目に入り作品に於いても真剣に取り組んで行く大切な時期に、東映入社の時からお世話になったマキノ光雄さんと福島通人さんとの別れ、橋蔵さまにとっては相談できる人を失い、ひばりさんは独立して東映専属契約を結び、コンビ解消ですから、大変難しい時を迎えていたのです。
橋蔵さまがひと回り大きくなっていくための試練だったのかもしれません。